「英語の情緒性、日本語の論理性 - 杉本良夫」ちくま文庫 日本人をやめる方法ー杉本良夫から から

「英語の情緒性、日本語の論理性 - 杉本良夫」ちくま文庫 日本人をやめる方法ー杉本良夫から から

(途中段落から)
それに、英語教育にたずさわる人たちが、奇妙なステレオタイプを生徒たちにたたきこんんでいるのは問題だと思う。とくに、英語は論理的で、日本語は情緒的な言語だという神話が、かなり根強い。この神話は日本人論の通説ともつながっていて、日本は情緒社会、欧米は論理社会などという暴論さえある。こういう通念にふりまわされて、まことに不自然な行動に走っている日本人をよく見かける。「英語を話すときは、身も心もアメリカ人にならなければなりません」などと、まことしやかに教育している人たちがいるが、そんなことはない。
英語はきわめて情緒的な表現の豊かな言葉であり、日本語よりも情緒度が高い面も多い。私自身、英語圏の大学で教壇に立っ てきて、 この点について 三つの段階を経てきたいう気がする。
第一の段階は、英語のいいまわしがことごとく論理的に見える時期である。日本人の英語の使い手には、この段階にとどまっている人が、圧倒的に多い。これは、私たちが英語を習うとき、ふつう文法という道具だてを通して、この言語に接近するということと関係がある。日本語の方は、赤ん坊のときから、日常生活の場面のなかで、一歩一歩、耳を通して覚えていくのだが、英語の方はそうではない。これは名詞、あれは形容詞、この言葉は目的語、あの言葉は関係代名詞というふうに、理屈ぜめで習得していく。これで英語に論理性を感じなければ、そのほうが不思議ではないだろうか。逆に日本語の方は、小さいときから、あたたかい、痛い、疲れた、おもしろ いといった極めて日常的な感情や感覚と近いところから身につけていく。英語を論理的、日本語を情緒的というふうに単純な二区分法でとらえようとするとき、私たちは、それぞれの言葉の特徴について語っているというよりは、私たち自身の両言語の習得過程の違いを告白しているに過ぎない。そのことに、私は長い間気がつかなかった。
第二の段階は、英語の情緒的表現の豊かさに、すっかり圧倒される時期である。この段階まで来ると、その人の英語力は相当なところまで来ている。二十歳前後になって、英語社会で二、三年生活しても、英語の微妙な言い回しの奥の奥まで分かるところまではなかなかいかない。私の経験からみても、身の回りの日本からの留学生を観察しても、普通はそうである。 十年ほどして、やっと日常の生活感覚の深層に、英語のなかに組み込まれた喜怒哀楽の構造がしみこむように定着してはじめて、英語で「情」を語ることが可能になるのではないだろうか。英語の慣用句に「行間をよむ」という言い方があるが、そういうことができるようにならなければならない。とくに英語圏社会に長期間 暮らすというようなことをしなくても、英語の叙情詩や小説を「体で理解する」ようになれば、その域に達している・こういう感覚になったある時期、私は英語の感覚表現の方が、日本語のそれよりも豊かで奥深いのではないかと、かなり長い間考えていた。
しかし、それよりもまだ一歩先がある。第三の段階に来ると、日本語と英語が等距離になり、どちらも同じ程度に論理的であり、同じ程度に情緒的であるという感覚が生まれてくる。むしろ、ふたつの言語の違いは、どういう点で論理的であり、どういう点で情緒的であるかということの分析が関心の中心になる。
例えば、ものの感じを日本語では「さらさら」「ころころ」「どきどき」というふうに、オノマトピア(音を使った比喩、声喩法 )の副詞を多用して表現する。同じことを、英語ではrattle, whisper, ticktackというふうに、音を組み込んだ動詞や名詞を使用して表すことが多い。違ったスタイルをとるだけのことである。
外国語の相当な使い手にとっても、共通して最後に残る難関は、論理と感情が一体になったような小さなつなぎ文字の使い方である。英語の場合、それは、冠詞とか前置詞とかの小さい文字である。それに、単数と複数の区別もむずかしい。私は日本語を外国人に教えた経験はまったくないが、同僚の日本語教員に聞いてみると、日本語に相当な実力のある外国人にとっても、最後にむずかしいのは、いわゆるテニオハ、助詞の類であるという。主要語句の間をつないでいく接着剤の重要性は、両言語に共通しているが、接着剤の中身と接着する場所が違うだけのことである。
日本を出て長期間あるいは一生海外で暮すことをせんたくしようとする場合、住む国の言語をどの程度会得しているかは、その国での当人のライフ・スタイルに決定的な影響をおよぼす。「言葉なんか二の次、要は心の問題」というような人もいるが、長期滞在となると、そうもいかない。それに、交際や職業の選択の幅が、言葉を習得しているかどうかによって、根本的に違ってくる。
このことは、全ての人が英語の達人になるべきだという主張ではない。私はたまたま英語圏に居を定めることになってしまったが、これから将来を考えている人たちは、ぜひいろいろ言語圏の可能性を探ってほしいと思う。少なくとも、外国と考えると先ず第一にアメリカが頭に浮かぶというような狭い思考様式から自由になることである。学校レベルでの外国語教育で、実質的に英語だけが必須になっているのはおかしい。ハングルや中国語をはじめ、日本の隣近所で使われている言葉が、中学や高校で選択できるようになってはじめて、日本にも国際化が根付いてきたといえるのではないだろうか。英語一辺倒は全世界に開かれた国際化を妨げる働きをする。
自分と外国語との関わり方を熟考することは、自分のなかの「世界についての意識地図」の構造を照らしだすことになるだろう。この作業は「内なるゆがみ」を白日の下にさらしだす。個人内部の国際化を志向するものにとって、この過程は避けて通れない。