「民芸の美(小学六年) - 柳宗悦」文春文庫 教科書で覚えた名文 から

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「民芸の美(小学六年) - 柳宗悦」文春文庫 教科書で覚えた名文 から

むかしからの古い町をおとずれますと、職人の仕事の名をとった町名の多いのに気づくことでしょう。たとえば、大工町、竹屋町、紺屋町、桶屋町、鍛冶町などたくさんあります。このことからも、日本には、むかしから、さまざまな手仕事が栄えていたことが推しはかれます。
人間は、日々のくらしのために、さまざまな品物を、手仕事でつくってきています。着物やら、食器やら、家具やら、数えたらきりがないほどでありましょう。こういう品々を「工芸品」とよびます。美術品とちがうところは、使うことを目的として作られることであります。美術品はながめるもの、工芸品は用いるもの、といってさしつかえないでありましょう。
ところが、工芸品も、どうしても、上等の品とふつうの品とに分かれるかたむきがあります。上等品のほうは、技こうをこらし、そうしょくを多くしますから、高価になり、また、そうたくさんはできません。なみの品は、ずっと単純であり、また、数多く作られますから、ねだんも安くなります。この、ねだんの安い、民衆に用いられるふつうの品々を「民芸品」とよんでいます。民衆的な工芸品の意味であります。
もともと、工芸というものも、大きく見れば、美の世界に属するものであります。ところが、今日まで美しいものとして尊ばれたのは、上等品のほうばかりでありました。技こうをこらして作りますし、また、有名な工人の手に成ることも少なくありませんし、それに品数も少ないところから、たいへん貴重なものと考えられました。もとより、そういうものに、りっぱな品がいろいろあるのは事実でありますが、それかといって、実用的だということや、たくさんできるということなどが、美しさを低いものにすると考えるなら、これは、まちがいだといわなければなりますまい。また、名もない職人の手からは、美しい品はできないと決めてかかるのも、正しい見かたとはいわれません。事実、民芸品の中には、真に美しいものが、かずかず見られます。
いっぱんには、天才でないと、けっして美しい品は産めないと考えられていますが、実際は、そんなきゅうくつなものではなく、いっぱんの民衆でも、りっぱな仕事をすることができるのです。民芸品が、そのことを教えています。
また、実用品というと、りっぱな美の世界とはえんのないもののように考えられますが、実用ということには、働き手という意味があって、これが、おのずから健康さを求めます。それゆえ、民芸品には、健康な美しさが現われます。美しさにもいろいろありますが、健康な美しさが、いちばんではないでしょうか。
また、数多くできるということは、へいぼんさを表わすものと考えられていましたが、手で作る民芸品になると、多量に作ることが、かえって品物を美しくするもとにさえなります。多量に作れば、そのために技術がみがかれ、ほとんど無心の状態で作るまでにじゅく練して、そこに自由な美しさが現われます。
また、ねだんの安いものを軽く見る習慣がありますが、安い品は、しぜんに質素になり、単純になり、これがかえって質素な美しさを現わします。民芸品こそは、そのことをよく示してくれます。単純ということは、一つの大きな美の要素といってよいでありましょう。
日本は、だれでも知っているとおり、歴史の古い国でありますから、そのうちに、さまざまな工芸品が生まれ、技術が発達を見ました。それに、日本は、地理的に見て南北に長い国であるために、材料にさまざまな種類があります。また、風土のちがいから、いろいろな品物が要求されますから、作られるものに、変化が著しいのであります。そのうえ、今とちがって、むかしは、交通が不便であったため、各地で独得のものができ、これが、今日でも、根強く各地方に残っているのであります。
最近では、機械による生産がたいへん発達していますが、それでも、手ろくろ、手織り、手ぞめなどの仕事がさかんになってきています。それは、手による仕事には、なにかあたたかい人間らしさがあるからだと思われます。
わたしたちは、天才の手に成る美術品で、この世を美しくしていますが、さらにずっと数の多い民芸品こそは、この世を美しくするかしないかの大きなやくめをになっているものと思います。日々のくらしに深く関係する品物こそは、国民の生活文化の内容を決定するものでありましょう。
日本は、明治このかた、はげしい歴史的変化があったために、たくさんの伝統を失いましたが、しかし、今でも、見るべき手仕事が各地に伝えられています。日本固有のものを守り育てて、これをいっそうりっぱなものにすることは、日本人として、大きな務めであり、また喜びであると思います。