「「水曜日は狐の書評」の書評抜書 其の三 - 〈狐〉こと山村修」水曜日は狐の書評ちくま文庫から

 

「「水曜日は狐の書評」の書評抜書 其の三 - 〈狐〉こと山村修」水曜日は狐の書評ちくま文庫から

⑦論理の組み立てが精密にして美しい
榮久庵憲司著『幕の内弁当の美学』(朝日文庫)

工業デザインの分野に、このような文明批評を書く人がいる。榮久庵[えくあん]憲司の本を初めて読む人は意表を突かれるのではないか。本欄だっておどろいた。とにかく論理の組み立てが美しいのである。文章の一言一句が鮮やかなのである。
昭和四年生まれ、著作はすでに七冊ほどを数える。とくに道具など工芸品のデザインから日本人の心のありようを探る本が多いようだ。あたかも民芸を「発見」して日本文化に新しい光を当てた柳宗悦を連想させるところがある。ただし柳宗悦が研究者であったのに対し、榮久庵氏のほうは自身がインダストリアルデザイナー、つまり実作が本業である。豊かな説得力は、ひょっとすると柳を上回るかもしれない。
本書『幕の内弁当の美学』は、ごま書房から一九八〇年に刊行された。二十年ぶりの文庫化である。いかに古典的名著といっても、二十年間はほうっておかれたのは不遇というほかない。何しろ幕の内弁当から日本的デザインのすべてをみてしまおうという、特異といえばはなはだ特異なデザイン論であり、また産業論であり、伝統論であり、文明論である。
あまりにも豊かで幅の広い内容なので、ここに短く要約するのは無意味に近い。あえて書けば-、幕の内弁当とは、互いに異質なものを何でも取り込んで華やかに秩序立てるものである。目に見えぬところに精密な造型精神を働かせたものである。すなわち小さな箱に、無限の味わいを集約したものである。
そのような「幕の内構造」を、著者はたとえば日本製のオートバイにも見る。精巧な無数のパーツを、最小のスペースにコンパクトに統合し、美しさと力動感とをはらむのが日本のオートバイだ。
幕の内弁当とオートバイとの結びつき(!)。この着眼の見事さは読んでいて心地よい。榮久庵氏はさらに、無数の要素がひしめく、この狭い国土をもイメージする。幕の内弁当と日本列島。弁当の話がそんな気宇壮大なレベルにも達して、読者を楽しませ、考え込ませる。類書絶無。

 

⑧心優しい先生のすこぶる愉快な語学入門
黒田龍之助著『外国語の水曜日』(現代書館)

著者の黒田龍之助はロシア語の先生だ。東京工大で教えている。まだ三十代の半ば。若いし情熱はあるし、学生たちと付き合うのが好きらしい。理系の学生たちも、このちょっと風変わりで親しみやすい「第二外国語」の先生が気に入っているのだろう。「ロシア語上級」の授業がある水曜日には、それぞれに個性に富んだ学生たちが研究室に集まるようになった。
本書は、そうした学生諸君との交わりの日々から生まれた外国語学習の異色入門書である。
あえて「異色」と評するのは、まず、著者がロシア語はいうに及ばず、何語であれ外国語を勉強するのが心底好きな人であり、ほんとうに楽しげに外国語学習を語っているからだ。語学の勉強なんて、苦行以外の何ものでもないはずではないか(!)。
学生への教え方を工夫するだけではない。たとえばトルコからの留学生がやって来ると、著者はその学生に頼んでトルコ語のレッスンを受けたりする。ほかの学生たちと一緒に、彼のアパートへ行き、トルコ料理をふるまわれたりもする。
あるいは教員仲間と誘い合って、イタリア人の家にイタリア語を習いに行く。このくだりはとくに面白い。語学教育のプロが集まって、冗談まじりにワイワイガヤガヤしながら初体験の語学を学ぶ。教える側も「まったく、こんなに面白いクラスは初めてです」と戸惑いながらも喜ぶし、習う側もノリにノッてとんでもない会話文を創作して遊んだりする。
一冊の半ばあたりに「外国語学習にとって最も大切なこと」という一節がある。著者自ら「とにかく呆れるような内容である。しかしこれこそが必要だと心から信じているのだ」と語る語学の要諦は、「やめないこと」だという。潔くなく、未練たらしく、あきらめ悪く、いつまでもグズグズ続けていくこと。「いいかげん」でもいいから、いつまでも、とにもかくにも「やめない」こと。
語学のコツとしてこれまた異色の意見ではないか。人柄を感じさせる。学生たちが集まってくるのもむべなるかなと納得できる。

 

⑨分かりやすさが気持ちいい文章作法の傑作
村田喜代子著『名文を書かない文章講座』(葦書房)

読んでいて快い。文章作法について、これまでよく分からなかったことがすみずみまで分かる。凝っていた部分がもみほぐされて血行がよくなるような気がする。
これは傑出した文章作法の本だ。うれしくなるほど分かりやすい。著者の村田喜代子芥川賞作家である。かつて芥川賞作家による文章論がこんなに平明で、だれが読んでも理解できるように書かれた例はないのではないか。
たとえば人物描写でエロスが決定的に重要になることがある。エロスとは「生きた人間の一種の存在感」である。ところがわれわれは、ともすれば「豊満」だの「色香」だの「官能」だのといった語を使って何かを表現したつもりになってしまう。
そこで村田喜代子が引用してみせるのは、放浪の画家・山下清の日記である。たとえ語彙は少なくとも、山下清は言葉を誠実に費やして、旅館のおばさんの裸体のリアリティーを書き切ってしまうのだ。それに比べると、「豊満な体」とか「熟れた
若い女の肉体」などと書いてすませるのは不誠実で不快であると村田喜代子はいう。「散文とは誠実に言葉数を費やして、自分の前にある事象に迫るものだ」ともいう。
逆にまた、文章はどこかでキッパリと見切りをつけ、要らないと思えるところを大胆に削除することも必要だ。名文なんか惜しむことなく捨ててしまおうと著者は書く。たった一行でも自分で気が利いているとか格好がいいとか思っている文章は、愛惜のあまり、削ることができずに苦しむものだ。
たいていの物書きも覚えがあるのではないか。書いた者自身が「名文」だと思っている文章に限って、他人が読むと冗漫であったり、意味不明であったりするものである。まず大胆であれ。書いた文章をダメとけなされても、自分の人格まで否定されたとは思わないように。しかし、もしも書いた文章をほめられたなら、自分の全人格がほめられたと思って喜びなさいと、村田喜代子は書く。こんな心くばりのある文章作法の本も、かつて例がないと思う。