「武大想い出抄 - 山田風太郎」角川文庫 死言状 から

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「武大想い出抄 - 山田風太郎」角川文庫 死言状 から

「力なく床に首ふる我を見れば人はさだめて老衰というらむ」
「力なく床に首ふる汝[なれ]を見れば人はさだめて腎虚というらむ」
前者は、昔、色川武大が私によこしたハガキに書いてきた歌であり、後者は、それに対して私が送った返歌である。どうです、風流なものでしょう。
昔も昔、昭和三十年代後半のことで、色川氏はまだ三十を越えたかどうかという年齢で、ユーモアめかしているが、ともかくも老衰なんて言葉を使っている。色川氏にしてみれば、卵がかえる前の、もっとも鬱屈した時代であったろう。
その卵がかえるか、かえらないか本人にも不明で、まして他人の私にわかりようがない。
未来を知らずして、そのころ私と彼はマージャンばかりしていた。いや、私の自宅でやるマージャンに呼び集めるメンバーの一人にすぎなかった。
そのマージャンにしても、彼がのちに「雀[ジャン]聖」など呼ばれることになる人物であろうとは、こちらは夢にも知らなかった。やっていて、「強いなあ!」とおじけをふるうような凄みは全然ないのである。ただ、きわめて柔軟な、変幻自在のマージャンを打つ人だとは感じていた。
これがマージャン界で雀聖と呼ばれる人物として再出現したのを知って、私は唖然とした。まあ昔の講談で、はじめはただの百姓爺いと思っていたのが、あとで剣聖磯畑伴蔵とか羽賀井一心斎とかであることを知って、柳生の侍がウヘーとびっくり仰天する、といったお話しみたいなものである。
マージャンの雑誌などで、彼とお手合せを願ったプロたちが、色川氏が負けたら負けたで、いうにいわれぬ奥深い負け方だ、さすがは雀聖だ、と平伏しているような記事をいくつか読んで、私は笑い出した。
そういう至芸の世界は私にはわからないが、名だたるプロの名人もあまたあるなかで、色川氏がひとり「雀聖」などと呼ばれたのには、それらのプロとはちがう何かがあったのだろう。
何日かぶっつづけで徹夜マージャンという日々をくり返して、その後何年か姿を見せない時期があり - どうやら競輪を追ってあちこち放浪していたらしい - ある日、忽然[こつねん]と現われ出でたが、これがあの色川さんか、と、こちらが目をパチクリさせるほど肥満して、しかもその肉の盛りあがったまるい背をかがめ、柔らかな応対は以前と変らなかった。
そのころ私はちょうど某新聞に、「忍びの卍[まんじ]」という忍術小説を書いていたものだから、彼のことを「忍びの肥満児」と呼んだ。
色川さんは、その後も年に一度か二度、飄然[ひようぜん]と訪れた。マージャンはしない。ムダ話をするだけだが、胆石の大手術をしたといって、腹を切開した物凄い傷あとを見せ、摘出した胆石を枕頭[ちんとう]においていたら、見舞客が菓子とまちがえて食ってしまった。などいう話をしたりした。が、これは相手を面白がらせようという彼のサービス精神のあらわれで、まあつくり話だろうと思う。たとえ菓子と見まちがえたにせよ、病人の枕頭にあるものをいきなり食ってしまう見舞客などあるものではない。

それはともかく、人間はいろいろと相反する性格を同じ身体に抱いているもので、あれほど孤独な世界を描くのに比類のない才能を持っていた人が、一方で怖ろしくつきあい好きであった。話し合って別に可笑しくも悲しくもない私のような者のところへも、ときどき訪れたのがそのあらわれである。
そして、私にたくさんのビデオを貸してくれた。それは私が旧制中学のころ、禁制になっていたのをあえて見た昭和十年代の映画のビデオであったが、これに彼は一つ一つ親切に解説をつけてくれた。私も観た映画なのだが、ただ懐旧の念ばかりで、まったく無知識の俳優や芸能人の演技などについてだが、その記憶力には驚かざるを得なかった。
これほど精密な脳髄を持った人間が、どうして少年時代から「落ちこぼれ」になってしまったか、私にとっては不可解である。
また「期待されざる少年」であったことは私と同様だが、私の場合は幼少時代父母を失ったという事情があったのだが、彼には立派な両親が健在であり、本人も人間大好きできわめて人づきあいのいい性格なのに、と、ふしぎ千万である。
私は色川氏に「こわれた頭をかく、こわれない頭の男」という批評をたてまつった。
「こわれた頭」の孤絶した世界を描いてあきなかったこの人は、一方で、常人以上につき合いがよく、人集めが好きで、それどころかお山の大将になることもいやではない性質の持主ではなかったかと思われる。
晩年あれほど多くの心酔者を集めたのも、彼が、相手のいやがることをいわない、というデリケートなやさしさ、いいかえれば先天的に犀利[さいり]な観察眼を持っていたせいもあるが、根本的には人間大好きの性格が人々に反応したからだろう。
私は色川氏がまだ魔力を発揮しない時代からの知り合いなので、後年になってもそんな魔力を感じなかった。私がまた、そういう魔力に鈍感無頓着なせいもあるけれど、色川氏もまた、この相手が魔力を感じるか感じないか、鋭敏にかぎあてる能力の所有者であったと思う。
晩年には彼も、自分の持つ魔力のようなものについて自覚し、自信を持ってきたのではないか。あと十年生きていたら、彼は文壇の一教祖となるどころか、色川教か武大教か、新興宗教の開祖になったのではないか、とさえ私は考える。
さてその死んだ原因だが、その遠因は肥満からきた心臓障害にちがいないが、近因はやはりその直前の引っ越しの疲労だろう。
奥州への引っ越しなど突飛なことを思い立ったのは、つき合いのよさからきた繁忙にうんざりしたこともあるだろうが、それまで住んでいた高級住宅街成城の借家の家賃にも弱ったせいだろう。私が訪れて、「ここの家賃はいくらだ」ときいたら、五十万円とか答えて、「高いんです」と苦笑した。
が、それより安いところへゆこうにも、東京には代用すべきところがないのである。彼は孤独の世界に帰りたい望みがある一方で、人集めが好きで、かつ彼なりのプライド - だれにもあるミエもあった。
新しく借りた岩手県の家はなかなかの豪邸であったという。それが右のもろもろの望みを叶える唯一の場所であったのではないか。
しかし私が思うに、本来東京ッ子の色川氏が、そんなところに五年もがまんしていられるわけがない。
いままでと同じように手広で、かつ家賃がもう少し安いところがあれば彼は東京に住みたかったのだ、と私は思う。すなわち色川武大を殺したのは、直接には東京の地価である。
かくて色川武大の頭はこわれなかったが、心臓のほうがこわれた。