「俳人荷風・序 - 加藤郁乎」岩波現代文庫 俳人荷風 から

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俳人荷風・序 - 加藤郁乎」岩波現代文庫 俳人荷風 から

その生涯八十一年に永井荷風は八百句をこえる吐吟を遺している。作家の余技であれ、決してすくない方ではない。俳人荷風どあったといささかも疑わぬ筆者などは、その尺度で作家荷風を測り直すなどして久しい。ま、それはそれとして折ふしに詠みなされた句の成り立ち、それぞれの句の出自がはっきりしない俳趣がすくなからずあるところから改まって採り挙げる者は廖々たるものである。
弟子筋に当る佐藤春夫あるいは小島政二郎、兄事した谷崎潤一郎にせよ荷風の俳句を丹念周到に解きほぐした論考はもとより雑筆一つない。俳人の側も至極冷淡に終始、これまで荷風俳句論などと正面切った考察は一向に為されてない。つまり俳人荷風の部立てらしきあたりはぽっかり抜けてしまっている。はっきり云って待合遊びに興じる風俗習慣また余裕が失われ、花柳小説をまともに論ぜられる通人が地を掃ったかに見える戦後このかた不風流きわまる昨今では荷風の俳句にまでは手が廻りかねますというのが一つの見方、本音だろう。だが、ひるがえって虚心に詠み直すに、荷風の俳句は狭斜左褄[きようしやひだりづま]あるいは教坊歌吹海[きようぼうかすいかい]に材を採り借りるものばかりとはかぎらない。東都旧地の散策に日和下駄を鳴らし、何にも況[ま]して四季変遷の移ろいに目を細める日記魔の作家は昨日は今日の昔を十七文字に書き留めて置く風である。たとえ詠み棄てに類する句だろうと散人にとってそれぞれは『日乗』とひとしく虚実書き付けの徒し事でよかったのだろう。
世間には取合せの妙がままある。俳人荷風とは云わぬまでもその俳味をまともに捉え、ときには斜に構えて論じた奇特の御仁に日夏耿之介があり、ひとり気を吐いた。佶屈?牙[きつくつごうが]の文体は水と油、荷風を論ずるにふさわしいとは云えぬが、その『荷風文学』に「荷風俳諧の粋」の一篇が割かれてあったのは百出する荷風研究のなかで白眉、異とするに足る着目であり論考であり讃仰であった。
紫陽花や身を持ちくづす庵の主
これを「幾[ほと]んど悉くの随筆のなかさながらの口跡で、やんわりと直?に自己を談つてゐる佳句の雄の雄なるもの」と賞するあたり、溝五位の俳号により句作俳論を能くした詩人による精一杯のオマージュであろう。的を射た俳句感賞である。花柳小説の手だれを相手に右の句を抱一上人の行跡また俳味と比考したあたり、さらに俳諧通を任じて気後れしない。昭和十三年に俳句の商業綜合誌に発表された「荷風俳諧の粋」は発表当時一部の識者に迎え容れられたと聞く。しかるに、これを執り上げた論考を眼にした憶えがない。散人また愛想に乏しく、俳句は余技閑文字にすぎぬとでも乙に澄ましたものか黄眠洞主人に対する答礼の一遍すら示していない。文人相軽ろんず、判り切った挨拶など要らず好き不好きの判断なぞ後人に託したまでであろう。日夏耿之介の「荷風俳諧の粋」が書かれてより六十年、漸く「俳人荷風の現在」と副題を添えて「覚めた眼」が古屋健三により書かれた。「荷風を鑑賞するに俳句を除くと、いちばん親しい部分が除外された寂しさを覚える」と吐露されてあり、同党の士にめぐり会った思いを催した。荷風の句の多くは人生のはかなさをさりげなく述べた月並また写生句の仕立てであるにもかかわらず、勘どころである諧謔と自嘲を見逃がすことなく拾い上げ直された。「個人的に俳句が好きな」古屋氏の好意と謙辞に礼を述べたい。

荷風は早く二十代のはじめに巌谷小波の木曜会に入り俳人小波の許で俳句の手ほどきを受けその句会に出席精進した、というのが通説で大方の俳句辞典ほかもこれに従っている。だが裏付けとなる年代考証は何故かなおざりにされてきた。その入会時期を明治三十二年あるいは三十三年とするものなど、明治三十年代と漠然と記述するにとどまるものなど種々さまざまで定まらなかった。そうしたなかに松田良一氏による「永井荷風の木曜会入会時期考証覚え書」が出た。木曜会の機関誌にひとしい「活文壇」七号に荷風と清国人の蘇山人による句相撲「小楼一夜」ほかより引かれるなど、荷風の木曜会入会は明治三十三年の一月なら二月頃、と一定の決着がなされたのはありがたかった。岩波書店版『荷風全集』第二十巻に録せられた「俳句」には、明治三十二年七月の『翠風集』より二十四句を拾い、三十三年五月号の「活文壇」より十句を引き、さらに「文藝倶楽部」同年五月号より八句を加えてある。これらより以前の句となると尾崎紅葉硯友社の仲間と結成した紫吟社の「江戸むらさき」あたりに仮名別号などで出しているかもしれぬが未見である。明治二十三年より二十八年に至るこれに出ているか否かわからない。明治二十八年といえば荷風十七歳、高等師範付属中学校の同級生だった井上唖々と共にいずれかの紙誌俳壇に投句していたかどうかうかがい知られない。
俳人荷風として自覚した句作りに精進するようになるのは大正四、五年からであろう。花柳小説の名手として本領を発揮するにとどまらず、五十年にわたる友誼風交をむすぶ俳人江戸庵庭後のちの籾山梓月[もみやまていご]を知るのもこの時分からである。庭後とは明治四十三年五月に創刊した「三田文学」以来の付き合いで新橋ほかの茶屋遊び、また代地河岸や築地界隈での常磐津、清元、薗八などの教坊お浚い会などに出入りして招飲遊蕩に明け暮れした。この時分に俳人荷風は出来上がった。庭後庵に出入りするうちに鍛えられて自他ともに許す風流俳人が誕生した。俳人荷風を語るとき友人梓月の存在を逸するわけにはゆかぬ。
売文[ばいぶん]の筆買ひに行く師走かな
冬日和空にはものの烟かな
亡八に身をおとしけり河豚汁
春行くやゆるむ鼻緒の日和下駄
かくれ住む門[かど]に目立つや葉鶏頭
寂しさや独り飯くふ秋の暮
荷風三十七、八歳、いっぱしの町方の俳諧師ぶり、消閑の具とだけは云い切れぬ独自の俳趣は天与のたまものであろう。
これまでの荷風研究もしくは傾倒頌美の多くは鴎外、潤一郎、さかのぼって春水、柳北あたりを引いて足れりとする類いにかぎられていたが沒後五十年、そろそろ継ぎ接ぎだらけの衣更えするのも一興だろう。花柳文芸の畑ひとつ取っても斜街三業地をひろげる意味で、岡鬼太郎のみならず平山廬江[ひらやまろこう]、また弟子筋の邦枝完二[くにえだかんじ]、正岡容[まさおかいるる]、あるいは上方から近松秋江を呼んでもよいではないか。さらに欲を申せば浅草の芭蕉で通った増田龍雨[ますだりゆうう]の俳事に頼ってもよいではあるまいか。荷風の反骨というよりかは手すさびから育てられた花柳三昧の文学はそんなに堅苦しい世界なんかではなかったように思う。
そして、いまだに手つかず同然の目の前の宝、荷風好みの俳諧俳句に目を向け直すべきであろう。荷風の俳句を江戸座で片付けるわけにはゆかぬように、其角を好いた荷風は普子以上に一筋縄では律し切れぬ複雑の人である。風流の友吉井勇の影響か何か知らぬが荷風は不夜庵太祇を島原の俳諧資料によりひそかに探っていたふしがある。籾山梓月、三村竹清[みむらちくせい]、二世左団次よりもたらされた『洞房語園[どうぼうごえん]』ほかの吉原俳書から材また想を得て大正昭和の築地、銀座、浅草あたりの俳味を堀り起こしていたかもしれぬ。『新橋夜話』『腕くらべ』『濹東綺譚』など荷風の俳句趣味を抜きにしては語れまい。『雨瀟瀟』は宮薗、一中、常磐津、富本、清元の側からだけで論じられるのは片手落ち、彩?堂主人ヨウさん籾山梓月の俳事にまで探りを入れれば江戸音曲の運命はおのずから解けてくる。ちなみに、ヨウさんは梓月の生家である吉村家からきているのだろう。吉村家からは梓月の令兄で一中節の上手として柳橋花柳界に聞こえた和泉町の風流子吉村佐平が出た。