「三年周期 - 団鬼六」快楽なくして何が人生 から

 

 

「三年周期 - 団鬼六」快楽なくして何が人生 から

 

港町の酒場
教頭は、五十四、五歳ぐらい、酒好きでなかなか話のわかる好人物でした。
ある夜、この酒好きの教頭に連れられて、私は港町の酒場へ入ったことがあります。教頭に連れて行かれた店は、酒場街の中でも最も大衆的な店で、かなり繁盛していました。縄のれんを吊るすような店なのに、ドレス姿のいかにも酒場女らしいホステスたちが相当に酔っ払って客の席を渡り歩いています。
ママは黄色いドレスがよく似合う瓜実顔の背の高い女でした。
彼女は教頭を見ると、「ワアァ、先生、大好き」といっていきなり彼に抱きつき、頬っぺたにチュッ、チュッとキスするんです。
「このママはね、当校のある生徒の父親の愛人なんだよ」
と、教頭はそんなふうに酒場のママを私に紹介するのです。
教頭が当校の生徒の父親の愛人と、こんなふうに酒場でチュッ、チュッやっていいものかと私は何とも気になるんですが、しかし、こういう港町の酒場は東京の酒場では見られない一種独特の面白さがありました。
帳場の方に向かって、ホステスたちは、客の注文を追加するたびに、
「さんまさんにビール二本、追加」
「いわしさんにお銚子一本、追加」
などと、がらがら声を張り上げているのですが、さんまさんとか、いわしさんとかいうのはサンマ船やイワシ船に乗っている客のことなんです。ときどき、
「あそこのコンブにわかめ酒」
などとホステスがおかしな注文をするのでびっくりさせられることがありますが、コンブ採りの漁師がワカメのお通しつきの酒を注文しているということらしいんです。
ママは壁際の席で不景気そうにボソボソ語りながら、酒を飲んでいる客をチラッと見ると、忙しげに立ち働いているホステスに向かって声をかけました。
「あそこのイカにお銚子を追加しなよ。お通しはスルメでいいわよ」
そして、ママは私の顔を見てキャッキャッと笑いながら立ち上がり、他の客の相手をするため、よろめきながら混雑の中へ入って行くのです。
「面白い店ですね。ちょっと東京じゃこういう雰囲気を味わうことはできませんよ」
と、私は教頭のコップにビールを注ぎながらいいました。この酒場《黒船》には酒場女六人ぐらいを置いているのですが、教頭のいい方によると彼女たちは航海第二未亡人であって、つまり、遠洋漁業に出かける海の男たちの愛人であるというわけです。単に航海未亡人というのは二年、三年空閨を守らねばならぬ海の男たちの本妻を指すものらしく、だから、愛人は第二未亡人という呼称がついたのでしょう。
教頭はいつの間にか、その酒場《黒船》内の航海第二未亡人たちに取り囲まれてご機嫌になり、私に向かって、
「よし、明後日の海南丸の出港を見送りに行こう。日曜だからちょうどいいじゃないか」
といい出すのです。
そして、教頭は酔って大声で歌いまくっているママを呼び寄せ、この新人教師の私もその見送りバスに乗せてくれ、と、わざわざ頼んでくれるのです。ママはこの港町酒場で働く航海第二未亡人のボスでもあるそうです。

 

出港の見送り
それから二日後、私はその酔っ払いの酒場ママに招待された形で、奇妙な貸し切りバスに乗りました。
バスの中は港の酒場女でぎっしり詰まっています。そして、それぞれ化粧をし、綺麗に着飾って、揃って神妙な顔をしていました。酔っている女など一人もいません。
彼女たちはこれから二年間の航海に出る海南丸を見送りに出かけるわけで、海南丸には彼女たちのいわば情夫が乗っているわけです。バスは酒場女たちを満載して走り出しましたが、船の出る桟橋には止まらないんです。桟橋は船員たちが家族と別れを惜しむ場所なのです。バスは桟橋からかなり離れた所に一旦停止して船の出港を待っています。
バスの中の彼女たちはいっせいに車窓へ顔を押しつけるようにして桟橋の方を見つめ、息をつめて、妻や子と別れを惜しんでいる愛人の姿を必死に探し求めているのです。
「ね、私の彼はあれよ、私の彼はあれよ」
突然、ママが私の首筋をつかむようにしてうしろから昂奮した声を張り上げました。
ママの情夫は海南丸の一等機関士であることがわかったのですが、小さな子供を肩車して妻と静かに談笑しているようで、ママはその光景を眼にしながらしきりにハンカチで目頭を押さえていました。
いた、いた、あそこにいた、など酒場女たちは自分の愛人を見つけると、昂った声を上げて子供のように悦び、また、涙を流したり、バスの方向に愛人や愛人の妻の視線が向けられると見つかるはずないのに車窓にくっつけている首を低めたりするのです。
こんな形でしか愛人を見送ることができない彼女たちを見ているうちに、私は妙に胸が熱くなってくるんです。海南丸に乗り込んだ船員たちは、家族の者たちとテープを投げ合って手と手をつなぎ合うのです。
やがてそのテープを切り離して海南丸が出港すると、それっとばかりに酒場女たちを満載した貸し切りバスは走り出しました。バスは港町を通り抜けて大橋を通過し、城ヶ島から海上を航行して行く海南丸を、彼女たちは見送るつもりらしいのです。
自分たちが何の気がねもなく見送ることのできる場所にまでバスを走らせているのです。ほっかり浮かんだ白い雲と青い海、のんびりと航行する遊覧船からガイド嬢の歌声がマイクを通してバスの中まで聞こえてきます。
♪雨は降る降る 城ヶ島の磯に 利休ねずみの雨が降る♪
島の南端に到着したバスから酒場女たちはいっせいに下り立つのです。そして、岸壁の方に向かって彼女たちは子供のようにわっと駆け出して行きます。
遥か彼方の洋上を海南丸が航行して行くのですが、船上でも彼女たちの姿が現れるのを待ちかねていたのでしょう。青い海の沖合に浮かぶ海南丸からは、もうこっちに向かって布のついた長い竿が何本も揺れ動いてるんです。何やら、大声でこちらに向かって船員たちはわめき散らしているのです。
俺が戻るまで浮気したら承知せんぞ、とがなり立てているのかも知れません。長い布をつけた旗は大きく、懸命に揺れ動いている感じでした。それは先ほど、彼らが港の桟橋で妻子と別れを惜しんだときのような静的なものではなく、いかにも海の男の別れ方といったような豪快さに満ちたものでした。情熱を込めた別れの合図なんです。
「あんたぁ、好きだよう」
「外国女と浮気するんじゃないよっ」
地中海方面まで航海する海南丸に向かって、酒場女たちは必死にハンカチを振ります。
号泣する女もいれば、大声で笑って見せる女もいました。その一種異様な、そして、何とも情熱的な別れの光景を見られて私の胸は痺れました。
芸術的な別れ方を見せられたような感動を受け、こんなのに比べると、都落ちするときの私と女の別れ方は何だか陰気くさくて恥ずかしいような気がしてくるのです。
港町の酒場女と海の男の別れ方は、それほど私を感動させ、いまでも別れた東京の女を思い出しては、くよくよ思い悩む自分が小さく、情けないものに思われてくるのです。
教頭は私に、同じ学校の英語教師である土地の女性を結婚相手として薦めてくれたのですが、私は東京のいろいろな女にまだ未練があって、そんな気持ちにはとてもなれなかったのですが、この海の街、三崎の女に何となくロマンチックな魅力を感じ出すようになってきたのです。

 

三崎の女と結婚
校長からの熱心な薦めもあって、私は三浦三崎で結婚することになりました。相手は同じ学校の英語の女教師です。丁度、私が三崎へ流れついてから一年目、東京に復帰できる望みも次第に薄れて、私はもう田舎教師になって、このまま老い果てていこうと半ば決心した頃でした。
田舎教師の生活も満ざら捨てたものではないと私は思うようになっていました。とにかく、風光明媚な海のある街で、空気は清々しいし、魚は新鮮でうまい。私の住んでいるところから学校に至るまでのコースは紺青の海が続き、陽炎の燃えるのどかな砂山が続くのです。浜辺に引き上げられた漁船が見え、乾かした海草の匂いや、魚の匂いが流れてきます。
このように、少し恰好よくいえば、初期の印象派の絵のような美しい風景に溶け込んで暮らせるなど、実に幸せではないか、と、私は思うことにしました。
私と結婚してくれる女性には悪いけれど、島流しにされた流人が島の娘と結婚するような淋しい落ち着きを持つべきだ、などと私はセンチメンタルに考えました。
しかし、配所暮らしのままで結婚というのは最初の計算にはまるでなかったことで、しかも相手が女ながら中学では英語部長の肩書きもある教育者なのですから私としては相当にビビりました。これまでの人生経験から見ても自分の妻になる女というのは初心[うぶ]なストリッパーか気立てのいい酒場女ぐらいしか対象として想像できなかったのですが、その種の女性に初心だとか気立てがいいとか注文をつけるのは変だとしても、まさか教育者を妻にするとは思わなかった。
ところがどういうわけか、常識では、昔、ストリップ小屋で働いたとか、盛り場で酒場を経営したとか、そんな経歴を持つ私なんぞに女教師連中は嫌悪感を持つはずだと思っていましたが、案外そうではなく、私は彼女たちにかなり受けはよかったんです。音楽と書道の独身の女の先生が、よく日曜日など連れ立って南下浦の私の侘び住居に遊びに来たものです。
私は東京の玄人筋にはあまりもてなかったようなんですが、田舎の女教師にはもてていたように思われます。
私は自分の前歴は包み隠さず、彼女たちに語っていたのですが、昔の師範教師みたいなタイプより、私のようにストリップ劇場出身の珍妙な教師の方が、彼女たちの興味を引くことになるらしいのです。
結婚式は城ヶ島ホテルで行いましたが、お祝いに集まったのは、ほとんどが地元の妻方の縁者と学校の教職員ばかり、私の方は両親と妹だけしか出席しませんでした。結婚の通知状を昔の仲間に出さなかったのです。うかつにそんなものを出すと、こちらの住所を嗅ぎつけた借金とりがお祝いに出席してくるかも知れず、それを恐れたからです。
もちろん結婚式の何ケ月か前に彼女をつれて東京へ出て両親に引き合わせましたが、父はあとから私だけを別室に呼んで、人生、すべて勝負事だぞ、悔いはないか、と結婚に賛成とも反対ともいわず、しかし、相場で失敗し、三崎へ逃げたことに関しては、男はそうでなくてはいかん。相場の損はいつか取り戻せるものだ、と、以前と性格に変化は見られないんです。妻の実家から相場の資金提供させよ、といい出しかねないので妻をなるべく父には接近させないようにしました。
こうして三崎で結婚してしまった私は今まで通り、平凡で単調な教員生活を続けようとしたのですが、変化が生じてきました。

 

花と蛇」の依頼
ある日、大阪から「奇譚クラブ」の社長の木村さんと「奇譚クラブ」で縄師として活躍されていた辻村という人が揃って私を訪ね、三崎にまでやって来て、引き続いて「花と蛇」を執筆してくれないかと私を口説き始めるのです。
どぎついSMエロ小説の社長と編集長二人が突然、中学にまで私を探しあてて来られたのですから面喰らいました。職員室で話すこともできないので校庭の鉄棒にぶら下がりながら話を聞いたのですが、以前、東京から奇譚クラブへ投稿していた「花と蛇」という異常エロ小説が好評で、こんなにファンレターがきていると木村さんは鞄の中からどっさり手紙を取り出して私に示し、引き続き連載を頼むといい、その場で多額の現金を私に渡そうとするのです。
花巻京太郎というペンネームで東京で酒場経営しているとき、自棄気味になって三回か四回連載したことがあり、東京から夜逃げするのと同時に中断したままになっていたのですが、続いて執筆を頼むといわれても私はまごつくばかりです。
花と蛇」の連載が始まってからかなり部数が伸びた、と私に感謝するようないい方をしたあと、木村さんは辻村さんと一緒にどうしても続けて執筆してほしいと粘るのです。といわれても、私は中学の教師になってしまった現在、ああいうものにまた手を染めるということは何か教師として背徳行為を行うようでうしろめたさを感じるのは当然で、とは一応、いってはみたものの、私は田舎教師の単調な日々に無感動ノイローゼというような状態になっていて、無性に自慰小説が書きたくなっていたことも事実でした。
とても小説みたいなものは書きたくないが、自分を自慰するためのエロ小説は書きたいという衝動もありました。
「書けといわれれば書けないことはないんですが、書く場所がないんです」
同じ中学に勤務する妻は文学少女みたいなところがあって、以前、私が何かの新人賞をとったような作品を読んで、それでまあ私を信用しているようなところがあり、その裏で私が「奇譚クラブ」向けのこんな悪魔小説を書いているなど夢にも知らないはずです。妻は机の上などに放置した私の生原稿を読む癖があるので油断も隙もないということを私は不景気な口調で木村さんにいったと思います。
しかし、東京でデカダン生活に浸っていた頃から「奇譚クラブ」の木村さんからは「花と蛇」の反響は凄いから続投してほしいという手紙連絡を何度も受けていたのですが、根気が続かず自然消滅した恰好になりました。それなのに木村さんはわざわざ大阪から原稿料など持って三浦三崎まで来てくれたという熱意を見れば、連載を復活させるのは当然だろうと密かに決心したのでした。
そう決心すると東京で「裏窓」というSM雑誌を発刊している美濃村さんも以前から、私の倒錯的官能小説を欲しがっていました。つまり彼は私の酒場時代のデカダン仲間の一人だったのです。
職員室でこっそり書いていると後ろから教員たちがいつの間にかのぞき込んでいて、郷土史の研究ですかとか、火野葦平の『花と龍』と何か関連のあることをお下記になっているのですか、と声をかけたりするのです。私は落ち着かないし、かといって自宅では妻の眼がこわいし、締切りに追われてついには教室の机で生徒に自習させてこのエロ小説を書いたこともありました。そして教室内でどぎついエロ小説を生徒に自習してもらって書くなど、救われない教師になったものだと情けなく感じたこともありました。
四クラス、すべて自習にして教室内の机で「裏窓」の長編書き下ろしを仕上げたこともありました。
「自習っ」というと生徒たちの方が喜ぶのです。書き終えると、クラスの中の劣等生に頼んで、近くの郵便局から出版社へ発送させたりしました。
教師時代に「花と蛇」を再開することになると、それまでの花巻京太郎のペンネームを団鬼六に変えたのですが、別にペンネームにこれという意味はありません。団令子という女優が好きで、下からいくと昭和六年生まれの私、これからは鬼みたいになって団令子みたいな女を犯しまくる、といったところになりますか。
絶対に自分は教師として失格だと間もなく学校を辞めることになるんですが、それからいろいろな職業にかかわりましたけれど、「奇譚クラブ」における「花と蛇」の連載は延々と続いて通算、八年に及ぶ大長編となったのです。
たしかに私は性的には嗜虐趣味だと思っていますが、持つ分子は極めて微量なものであって、いわゆるSM愛好者ではないんです。緊縛マニアというものでもない。妖艶なまたは清楚な美女が緊縛された裸体を羞恥に悶えさせているただそれだけの情景に濃厚なエロチシズムを感じてしまうのですから、たしかに異質な性癖だと思うのですが、これはSMといっても病的なものではなく極めて健康的な分野だと自分では思っています。
その羞恥という感情表現の語句を一つ一つ考え出すのも私の場合、自慰的な快感があるんです。羞恥、含羞、恥辱、屈辱、汚辱、廉恥、慚愧など-。また、哀感にしたって、悲哀、哀傷、悲痛、悲壮、哀絶、悽愴など-。官能シーンにおける感情表現の類語選びもまた、「花と蛇」における私の自慰的な楽しみ方でした。

 

東京からの誘い
さて、このままのんびりと田舎教師で一生を過ごしてしまっていいのだろうか、と私なりに妙に考え込むようになってきた頃、降ってわいたようなありがたい話が、私のところに転がり込んできたのです。
私が以前働いていた映画雑誌の重役が、突然私をたずねてきました。
何とか企画というテレビ洋画制作会社が水道橋にできたが、入社しないかというのです。彼はその会社の専務になっていたんです。
テレビ洋画制作会社というのは、いい方を変えると、洋画をテレビの日本語版に作り変える会社であって、洋画の翻訳を頼みたいと彼はいうのです。単に翻訳するだけでなく、声優用の台本を作る仕事で、これは洋画の俳優の口の動きに合わせて日本語をはめ込むわけですから、大変な仕事ですけど、給料は七万円出すというのです。
当時、講師待遇であった私の学校でもらう給料は二万三千円ぐらいで、七万円というのはその三倍になるのです。給料がいっぺんに三倍に跳ね上がるというのは、恐ろしいくらいにいい条件でした。
それよりも、ひょっとすればこれで東京へ戻ることができるという興奮の方が大きかったのです。長い間、島流しにされている人間の前に、御赦免船の知らせが届いたようなものです。
しかしこの流人はもはや、女房、子供まで生[な]しています。教師を辞めて東京へ行くといい出せば、現役の教師である妻は腹を立てるに違いありません。妻の父も怒るでしょう。学校の校長だって、教頭だって、教師が急に生徒をほったらかして辞めるなんてことは、非常識もはなはだしいといって怒るにきまっています。
だいたい、私が東京に未練を持つということを妻が悦ばなかったのは、東京には男の魂を腐食させるような魔女がうじゃうじゃいると思っているからなのです。そうした魔女やケバケバしい人工的享楽の巷に、私が未練を残していると、妻や親族たちはそれを何となく不安に思っていることが想像できます。
果たしてこの御赦免船にうまく乗り切れるか、どうか-私は妻や家族の者に懸命になって自分の気持ちを訴えました。
自分は教師としては、はなはだしく適性を欠く人間であるということ、今度、東京から勧誘に来たテレビ系の仕事は、将来性が大いにあるということ、自分はその仕事に携わりながら、小説や脚本をもう一度、書いてみたいということ-SM小説を書きたいということはさすがにいえませんでした。-何なら、給料は七万円も出してもらえるんだから、妻に今の教師の仕事を辞めさせ、妻子ともに上京してもいいということ-そんなことを世話になった妻の父親にも語ったのですが、眷属[けんぞく]会議の結果、ようやくOKが出ました。
思えば、東京での作家生活が三年、酒場経営が三年、三崎の教員生活が三年、私の運命周期は三年になっているようで、どのような道に進んでも三年しか持続しないというふうに運命づけられているんじゃないかと思ったことがあります。