(巻三十六)深川や木更津舟の年籠(正岡子規)

(巻三十六)深川や木更津舟の年籠(正岡子規)

 

2月9日木曜日

快晴、強風。明日から風雪との予報が出ている。細君は3日分の買うつもりで生協へ出かけて行った。私も細君が買い残した重量物を買いに出たが風が強い。ブクブクと重ね着をしたガスの検針員さんが各戸を回っていたので挨拶を交わした。検針員さんでもなんでも、とにかく人が出たり入ったりしてくれていた方が防犯上よろしいだろう。

その検針員さんが一ヶ月の使用量を記載したスリップを入れていったが、34立米だ。老夫婦二人でガスファンヒーターは朝の10分だけ。ほかは煮炊きと風呂だ。風呂に毎日入るが贅沢ではあるが、それ以外は節約家であると思う。

昼飯喰って、一息入れて、血圧の検診へクリニックへ参る。混んではいない。やっと歩いてきた後期者が数名。いずれ我が身か?

診察室に呼び込まれ、問診を受けながらベテランの看護師さんの血圧測定を受ける。医者の前に出るといい顔をする血圧は130-80と出たそうでお薬は変わらず。平成立石病院の検査結果も血圧手帳と一緒に提出しているが、数値の解説をしてくれる。

精算し、処方箋を頂きはす向かいの薬局に移動。薬局で薬剤師さんに処方箋ほかを預け、飲み屋“さと村”へ急いだ。

さと村では煮込みとタン・レバの塩二本ずつで「佐渡の真」という酒を三合も呑んだ。タン・レバとも一串百円だが肉厚の比較では同じ値段の平安、モツ吟、串焼本舗を凌駕する。勘定は二千五百円。いい気分で薬局に戻り5ミリのお薬をいただいて退出。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

顔本に掲載される警句でフムフムと感じ入った作を書き留めている。なかなかフムフムに出会わないが、今朝はこれを書き留めてみた。考え過ぎを諌める警句は多い。

Sometimes the worst place you can be is your own head.

その頁に、

“It's better to have a short life that is full of what you like doing, than a long life in a miserable way.” Alan Watts

が書いてある。こちらの方が好きだ。長生きするだけが能じゃない。

「アル中ハイマーの一日 - 山田風太郎新潮文庫 太田和彦編 今宵もウイスキー から

を再読した。酒の力で夢死してしまいたい。

ぽつねんと狸爺の梅見酒(前田吐実男)

 

「アル中ハイマーの一日 - 山田風太郎新潮文庫 太田和彦編 今宵もウイスキー から

 

ありふれたこのごろの私の一日を、千鳥足風に書いてみようと思う。

同年配の友人で、身体不自由になった連中がふえてきた。脳梗塞とか心臓病とかのためである。人間、半身不随になると、日常生活的には全身不随といっていい状態になる。

私はまだ、さいわいに五体は支障なく動くので、いまのうちに大いに旅行でもしようと思うのだが、それがこのごろ私も難儀になってきた。

というのは、夜、不眠の習性がようやくタタリをなしてきたのである。

決して不眠症なのではない。寝ることはけっこう寝ている。ただ夜半から朝まで起きているのがここ何十年かの習いで、これまでは旅行に出ても、それでも何とかとりつくろってきたのだが、その折り合いがつかなくなったのである。

ホテルや旅館で、真夜中にめざめてもどうしようもない。隣りに同伴者が寝ているので、テレビはおろか電灯もつけるわけにはゆかない。

夜があけるまで眼をパチクリさせながら、いったい何しに旅行に出かけたんだろうとかんしゃくが起こってくる。輾転反則[てんてんはんそく]どころか、七転八倒だ。

かんしゃくまぎれにがばとはね起きて、部屋に備えつけの冷蔵庫からウイスキーをとり出して、ガボガボあおって、しらしら明けのころにやっと眠りにつく。起きてみるともう昼近い。これではほんとに何のために旅行に出かけたのかわからない。

それどころか、去年(平成四年)の春など、外房の鴨川に一週間ほど滞在したのだが、このウイスキーのガブ飲みですっかり胃をこわして、毎日の夕食が食えなくなった。そのホテルは一流の板前がいるらしく、実にみごとな料理が山のごとく出てくるのだが、一箸か二箸しかつけられない始末であった。板前さんにも申しわけない。

思い出したが、この鴨川滞在のあと、茨城県脳梗塞の友人がいるのを見舞いにゆくことにした。この友人は産婦人科の医者だが、産科の医者でも脳梗塞を起すことがあるのである。

九十九里浜を北上して、その家を訪れると、杖をつけばヨタヨタ歩きはできそうである。そこでこれを連れ出して、福島県境にちかい袋田温泉へ足をのばした。

で、その夜二人で大いに飲んだのだが、胃炎の男と半身不随の男が大酒を飲むのもムチャだが、そもそも見舞いにいった人間と見舞われた病人が、手をとりあって温泉へくりこむのも、考えてみればあまり類があるまい。

いや、こんな旅行の話をするつもりで書き出したのではなかった。旅行すると不眠による不都合が起こるのだが、家では夜寝られなくてめちっともかまわないということを書くはずであった。

なぜなら、家では寝られなければ起きて、隣りの書斎にはいればいいのである。

私は毎日、午後五時半前後から晩酌にかかる。

この原稿は四月の末に書いているのだが、ことしはこの季節にまだコタツがとれない。で、コタツに坐って晩酌をやるのだが、顔を横にむけると、ガラス戸を通して庭が見える。

地上には、パンジーとチューリップの花壇の向うに、木瓜[ぼけ]の朱、すずしろの紫、椿の赤が彩り、その上に赤い花水木、さらに一枚ガラスにははいりきらない桜の大樹。

満開時の壮観は消えていまは新緑の葉桜だが、背景としてきょうは黄砂の空のようで、そのくせときどき金色の斜陽がさす美しさは、花どきのみならず、わが家の庭ながら夢幻の世界かと思われる。

それを眺めながら、まずコップ一杯の冷たいビールを飲んで、つぎに大コップにオンザロックウイスキーを飲む。

 

昔はボトル三分の一を定量にしていたが、いつのまにやら少しずつ減って、いまではコップ一杯半が適量らしい。それでもあまり無造作にボトルを傾けるので、先日も編集子三人ばかりが同席していたが、呆れかえった顔でそれを見ていた。

これん一意専心、飲み、かつ食う。

家内が見ていて、その飲みっぷり、食いぶりが、あんまりがつがつしすぎているとよくいう。

その家内も、やはり薄い薄い水割りでお相伴しているのだが、見ていると一杯飲んで、つぎに飲むのは三十分ばかりたってからである。そんな間のびした飲み方はとうていできない。

そこで何を食ったかというと - その夕食から、一睡していま五、六時間たっているのだが、もう何を食べたかきれいさっぱり忘れている。家内が、食わせ甲斐がないと歎[なげ]くのももっともだ。

何かで読んだ記憶によると、故池波正太郎さんは毎日の食事の献立を、何十年か一日も欠かさず克明にノートされていたという。ただ献立のみならず、その味から作り方まで記録されていたという。

で、何年か前、そのまねをして私もやってみたことがあるが、半月で降参してしまった。これは簡単そうで、相当な精神力を必要とする。家庭内ならともかく、料理屋とか旅館だとメニューは数十種にのぼるだろう。しかもそれが時間をおいて順次出てくる。これをそばにノートをおいて、いちいち書き入れているのじゃ、まったく飲んだり食ったりしている気がしないだろうと思う。

それで思い出したが、夏目漱石にも「食事表」なるものがある。大正五年十一月に書いたものだ。

 

十一月七日 午

カマス二尾

パン

バタ

葱味噌汁

十一月七日 晩

牛玉葱

ハンペン汁

栗八個

パン

バタ

十一月八日 朝

パン

バタ

鶏卵フライ一個

たったこれだけである。取り合せも変ちくりんだが、貧寒きわまるものだ。まるで病人食である。漱石はこの翌月胃潰瘍で死ぬのだが、べつにこのとき病人だったわけではない。こんなものを食って胃潰瘍で死ぬとはワリに合わないと思う。

で、私の話にもどるが、夕方食べたものをけんめいに思い出してみると、ゆでたそらまめがあったようだ。トマトと豌豆[えんどう]をそえたポークソテーがあったようだ。鰻の白焼きがあったようだ。筍とワカメとチクワの煮ものがあったようだ。鶯菜の漬物あったようだ。それから酒のあと、鰻重を食ったようだ。

これを御馳走と見るか見ないか、人の見る眼はいろいろだろうが、自分ではまあ御馳走だと思っている。少なくともきらいなものはない。自宅の食事のいちばんいいところは、きらいなものは出てこないということである。

谷崎潤一郎は、ぼたん鱧(鱧を骨切りしたものに葛粉をたたきこみ、ゆであげたものをスマシにしたもの)が大好物で、これを食うときは椀に顔をつきこまんばかりにし、汁をまわりにはねちらすのもかまわず、それを見た高峰秀子が、まるで猛獣が獲物にかぶりついているようだと表現しているが、そんな壮観には遠いけれど、とにかくこちらもけんめいに食う。

わたしは食事については巨人大鵬卵焼きで - この形容もアナクロニズムになりましたな - 鰻やビフテキなどが大好きで、升のすみに塩をのっけて、それでキューッと一杯をあおるなんて飲み方はとうていできない。

一日二食、ときには一食のことさえある食生活でありながら、とにかくいままで病気もせずに過ごしてきたのは、ひとえにこの晩酌のときの食事のせいではないかと思う。

それで大量に食べるかというと、実は常人の半分ないし三分の一くらいしか食べないのじゃないかと思う。もともと食は細いのである。

これは若いころからそうであった。昔、高木彬光さんといっしょにヨーロッパ旅行したとき、高木さんが数時間おきに出る機内食をかたっぱしからたいらげて、それでも足りずにワゴンにのせてまわってくるパンまで二つ三つ手を出すのを見るに見かねて、自分のパンを食われるわけでもないのに、「こら、いいかげんにしないか」と、どなりつけたくらいである。

もっとも、人間は他人がニガニガしくなるほど大喰いで、メカケの三人くらい持つやつでないと大事業はできない。食の細い人間はただ息をしているだけだ、というのが平生からの小生の見解だが - ただし、ただ無芸大食の人もたしかにありますがね - 考えてみると、食の細い人間にも一得はある。

国民総難民ともいうべき戦争中を思い出すと、私のように食の細い人間は、自分では気がつかないが、そのためにずいぶん助かっていたのではないかと思う。食の細いために生存し得た、ということもあるのである。

それはそれとして、いまの私は食う。量は少いにせよ、我流で食い、かつ飲む。

ところが、食ったものは数時間後には忘れてしまうし、それどころか、客といっしょに食事をすることも多いのだが、その客と話したことは、約束ごともふくめて、みんな忘れてしまう。

人づき合いの下手な私など、酒席は唯一の社交の機会のはずなのだが、かくのごとく自分勝手な飲み方なので、全然人づき合いの助けにならない。

『あと千回の晩飯』朝日文庫