(巻三十六)貼りかへるまでの障子を小づくろひ(下村梅子)

(巻三十六)貼りかへるまでの障子を小づくろひ(下村梅子)

2月8日水曜日

曇り。朝家事は洗濯。彼奴は元スッチーのTEL友と一時間半の長電話だ。

当方も11時前から小一時間ほど電話を致す。かけ放題の契約にしてあるが、隠遁生活で最近は電話を使ったことがなかった。それに電話と云うものはアポイントを取ってから掛けるものになったようで、気軽なコミュニケーションの手段ではなくなった。

連絡はせぬと連絡冬籠り(金澤健)

昼飯喰って、一息入れて、雨が降りそうなのでクロちゃん、生協、図書館と回って帰宅。クロちゃんは自転車置場の方にいたが、跳んできた。生協ではここ三、四日欠品になっていた猫のスナックが出ていたので3袋買っておいた。図書館では5冊借りたが全部ハズレ。

BBC The Bottom Line, Too much choice

https://www.bbc.co.uk/programmes/m001hfrr

を聴いていたらJam Studyという言葉がよく出てきた。選択肢の多さと販売量のことだろうと察しはついたが、ネットで浚ってみると簡単に説明しているビデオがあった。以下のビデオを見てみたが、よくできている。

https://www.bing.com/videos/search?q=jam+study&docid=603494363112108419&mid=31A1E4B33003A5A106D131A1E4B33003A5A106D1&view=detail&FORM=VIRE

設定もストーリーもおもしろいが、二人の専門家の服装に“ヘェー”と思った。スーツにネクタイでないのは当節そうなのだろうが、今やあんな格好でもいいんだ‼と驚いた。

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

ポックリと逝きたい。もういいよ。

再びは生まれ来ぬ世か冬銀河(細見綾子)

電話の話ではないが、

「六十五歳以上はきっと悲しいと思う - 北方謙三」生きるための辞書から

を再読した。

眠るしか用なき山となりにけり(久野茂樹)

「六十五歳以上はきっと悲しいと思う - 北方謙三」生きるための辞書から

スポーツでは、若い連中に到底及ばなくなった。足腰の持久力、心肺機能の低下と、いろいろあるだろう。確かなのは、そういうものを気力で補うのは、ある程度で限界であることだ。それ以上やると、躰が毀れる。場合によっては、死んじまう。

私が唯一、まだ若い者と同等にできそうなのは、居合抜きだけである。抜き撃ちで巻き藁を斬り飛ばす。それをできる者は少なく、有段者でも難しいと言われる。両手で袈裟に斬るというのは、大抵できるようになるが、抜き撃ちは右腕一本になり、しかも横一文字の刃筋はきわめて難しいとされる。私は、全身の力を抜いた状態で、それができるようになった。

ただ、抜いて斬り飛ばすまで無酸素運動で躰にこたえる。抜き撃った刃を返し、右袈裟、左袈裟と続けると、気分が悪くなってくるほどである。新しい技などには、とても挑戦できないな。抜き撃ち横一文字を、磨くだけしかないのだ。

私は、別のことをはじめようと思った。映画は、ほとんどがDVDを買う借りる、試供盤を貸して貰う、小屋へ出かけて行って観る。その程度であったが、私の欲しいと思うセルDVDは、五千円以上、下手をすると一万円を超えてしまうのである。

インターネットを遣えば、かなり自由に映画を観ることができるとは知っていた。ただ、私はネットというものと、できるだけ無縁で暮そうと思っていた。必要なことは、事務所の女の子たちにやって貰えばいい、と思っていたのだ。

私が映画を観るのは海の基地で、そこは私の城だから、すべて独力、女の子たちの手は借りない。インターネットで映画を観ようと思った時も、はじめから勉強した。まずWiMAXというものを遣おうと思った。カバーされている地域に、間違いなく海の基地が入っている。それを表示されている地図などで確認して、ルーターなるものを手に入れた。

しかし、WiMAXの電波をキャッチするはずのそれは、役立たずだった。海の基地には、WiMAXの電波が届いていない。地図で何度も確認したのに、遣えないのである。そんなことがあっていいのかと、ルーターを私に売った会社に文句を言おうと思った。しかし海の基地は、地上波のテレビも入らないらしい。それこそ好都合だと、私はテレビを置いていないのだ。テレビさえも映らない、崖の下で前が海という地形なのだ。諦めるしかない。こんな場合、地形を変えるわけにはいかず、諦めこそが肝心である。ルーターを売った会社の弁明ぐらいは聞いてみたいものだが。

別の方法を考えた。海の基地の前まで光回線が来ている。それを基地内にこめば、私が映画を観る空間に、Wi-Fiが飛び交っているという状態が作れる。私は、日本を代表するような、IT企業ね関連会社の窓口に電話をした。申し込みは受けつけてくれるという。生年月日を訊かれ、費用の説明を執拗なほど受け、親族認承がどうのと言われたので、そんなものは秘書でいいだろう、と言った。では、秘書の方のフルネームと連絡先をと問われ、私はそれを教えた。もうひとつ、別なところに電話が繋がりますと言われ、待っていると男性が出て、同じような工事費用や使用費用の説明を受けた。私は途中でうんざりしたが、ええ、とそうですをくり返した。するとまた、別なところに電話が繋がると言われ、待っていると女性が出た。同じ費用の説明に終始し、私もうんざりして、すべていいですよ、と言い続けた。その間、実に四十分もかかったが、契約できます、という言葉を得た。ほっとしたな。私の映画環境を、これで劇的に改善できる。しかし最後に、六十五歳以上の人には、親族認承が必要です、と言われた。

私は、じたばたした。というより、言われた瞬間に、ちょっとした衝撃のようなものに襲われた。自分は、親族の認承がなければ、こんなこともできないのか。保証人が必要です、と言われた方が、ずっとましだった。親族は何親等までだとか、この年齢まできちんと税金を払って、市民的に恥しいことなどしていないとか、かなり激高して言い募ってしまった。女性は会社の制度です、と言い続けるばかりであった。それじゃもういい、と私は話のすべてをぶちこわしてしまった。

私には、娘が二人いる。どちらにも、認承しておけとひと言いえば、はいという返事が返ってきて、それですべてが終っただろう。

しかし私はなぜか、では娘が認承します、と言えなかったのだ。なぜ、言えなかったのだろうか。多分、私は傷ついたのだ。親族の認承が必要な年齢だと言われたことに、傷ついた。私の反応が過剰だと、君は思うか。

年齢を理由に、やろうとしていることを遮られる。これを認めていたら、私の感性は徐々に鈍くなっていくような気がする。保証人などと言うより、親族認承の方がずっと簡単だろう、とその最大手のIT企業は考えたのだれうが、私は傷ついたぞ。無神経ではないか。天涯孤独な人にとっては、差別ではないか。

どうせ若い者を相手に商売をやっていて、老人を信用してやがらねえ、などと私はほざき続けたが、実に久しぶりに傷ついたのも、確かなことなんである。街で、よく怒っている人間を見かけ、それは大抵爺で、あんなにはなるまいと常日ごろから自分に言い聞かせているが、私はなっているのだろうか。

もともと、ネットやツイッターフェイスブックなどとは、無縁で生きようと決めた。なのに光回線などと考えたのは、ただ映画のためなのである。都合のいいところだけ利用しようとした私は、愚かなのか。しかし、都合の悪いものを利用しないのは、あたり前だろう。

それより、親族認承というのは、社会の通念なのだろうか。通念でないものを制度としているなら、時代遅れの会社だろう。

電話は、最初に、録音していますと言われた。私の雑言を浴びせられた女性は、ただ仕事をしただけなのに、かわいそうである。録音を聞いて、馬鹿な爺がいた、と思ってくれ。