「語学の必要性 - 村上龍」無趣味のすすめ から

 

「語学の必要性 - 村上龍」無趣味のすすめ から

七〇年代に二度のオイルショックがあった。その際、外語大のアラビア語科の競争率が上がった。石油危機が続けばアラビア語が有利だと思う若者が大勢いたのだ。だがその後石油の供給と価格は安定し、アラビア語は、特別なスキルにはならなかった。どの外国語を習得するか時代状況によって選んでもあまり意味がないのだと、よく引き合いに出される事例だ。だが、能力が同じならアラビア語を習得しているほうが、まったく語学ができないよりも有利なのは間違いない。
またアラビア語を学ぶ過程で、他の多くのことを学ぶことができるかも知れない。そして、その動機が何であれ、アラビア語をマスターした人は、アラビア語習得に向いていたということになるのだろう。要するに、アラビア語の習得は一生の安泰を保証するものではないが、外国語がまったくできない人よりは有利になるということだ。
現代は、英語の時代だ。小学校の英語の授業をすべて英語で行うという学校まで現れた。インターネットは英語のサイトがより充実しているという通説と、金融とITでアメリカの経済的覇権が長い間続いたことが大きな要因となっている。だが、英語にしても、アラビア語の場合と同じで、英語力が完璧だからといって一生安泰というわけではない。できない人よりも有利になる、というだけのことだ。ただし、アングロサクソン系の金融資本主義はとりあえず崩壊したので、有利さはいくぶん減ったかも知れない。
たとえ5カ国語、あるいは十カ国語をマスターしても、それで一生安泰ということはない。わたしたちの社会は、高度成長時の終身雇用の影響があまりに強いために、「一生安泰な仕事や資格やスキル」という幻想を求める傾向がある。残念ながら、そんなものはないとまず自覚すべきである。作家の登竜門としてもっとも権威があるのは芥川賞直木賞だろうが、受賞したからといって作家として一生安泰でいられるわけではない。
たとえ医師や弁護士や公認会計士の国家資格をとっても、不断の勉強がなければ地位を維持できない時代が近づいている。語学の習得は、得るものが大きく非常に重要で有用だが、それはその人の人生を「やや有利」にするだけだという当たり前の事実に気づくべきである。