(巻三十四) わたり来し橋をかぞへて夜寒かな(久保田万太郎)

(巻三十四) わたり来し橋をかぞへて夜寒かな(久保田万太郎)

9月24日土曜日

今朝の2時過ぎにこのあたりにも大雨洪水注意報が出たとFM葛飾が顔本で伝えている。7時に起きたが雨音がしっかりと聞こえる。

家事は、台所の換気扇のフィルター交換、エアコンフィルターの掃除、四部屋の拭き掃除。

格下げになつた嵐の暴れけり

で静岡の方が大変らしい。昼寝覚めの当地はまだ小雨。

昼寝したが、散歩には出かけず。

『外国語 - 井上ひさし』に刺激され、はたまた精神安定のために猛烈に勉強することにした。新しいことに手を出しても充実感は得られないので英語の聞き取りに夢中になることにした。今日は、Thinking Allowed の中から興味があり、何とかついて行けそうなPsychiatry A Social History

https://www.bbc.co.uk/programmes/m0016xrc

に挑んでいる。どうしても聞き取れない詞はあるが、eviscerate=内臓器官の抜き取り、何て言うのを突き止めたときは充実する。Electroconvulsive therapyとかInsulin coma therapyとか荒っぽい治療法があったのだなあ!

頭に余計なことを考えさせないためには頭を拘束するしかない。

辞書まめに引いては忘れ秋の夜(中村雅遊)

願い事-涅槃寂滅。兎に角“滅”。

諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静

「外国語 - 井上ひさし」死ぬのがこわくなくなる薬 から

なぜ私は外国語が話せないのだろうか。勉強しなかったわけではない。それどころか大いに勉強したはずである。それなのになぜ……?私たち日本人の大多数は中学と高校の六年間に約七千語も英語の単語をおぼえる。私の場合で言えば、英語のほかに中学生のときからフランス語をやってきた。大学では猛烈な勢いでドイツ語を叩き込まれ、途中から転科してフランス語をつづけた。卒業論文のかわりにモンテルランの戯曲の翻訳するという「暴挙」(フランス人教師の弁)さえやってのけた。だから英仏の二語ぐらいなんとか喋れそうなものだが、たとえば電車の中などで外国人が物問いたそうに車内を見渡していたりするのに出会うと、まるで借金取りにでも出っ喰わしたかのように、目が合わぬよう顔を伏せたりする。どうしてそんな情けないことになってしまったのか。この疑問が頭の片隅に巣喰ってからだいぶたつが、このごろになってようやく答えの見当がついてきた。つまり笑われるのがイヤなのだ。きれいな発音で、文法にも叶った英語を操って、できれば「お上手ですね」とほめられたい。つまらない発音で、文法もまちがえて、笑われてはいけない。よく言えば完全主義者、ふつうに言えば恥ずかしがり屋、ものはついでだから悪く言うと見栄っぱりなのである。

さらに言うなら、私たちは、たとえば、ここで英語をつかわなければ生死にかかわるという追い詰められた情況におかれていない。フランス語が喋れなければ生活できない。朝鮮語が話せなければまともな職につけない、そういうふうに切っ羽詰まった状態におかれていないから見栄も張れるのだろう。

それからもう一つ、私たちの外国語に対する態度はいささか甘いようである。オーストラリア国立大学の日本語科に招かれてまず胆を潰したのは、学生諸君の猛烈な勉強ぶりであった。信じられないほどの大量の宿題をこなす、たいてい二年間で辞書を引き潰す、三年生が太宰治全集を読み通す、四年生が宮沢賢治の『どんぐりと山猫』を全文、そらで覚えている。全豪の秀才が集まる大学だから、よく出来てよく勉強するのは当然だが、それにしてもすごい猛勉家がそろっていた。彼等は、もちろん日本語が喋れなければ生活できないわけではない。ただ、語学というものは死物狂いにならないと身につかないものだと信じているのである。「発音がなってなくても当然、文法的なまちがいをいくら仕出かしても平っちゃら。なぜなら私たちの母語は日本語ではないのだから」と開き直っている。

この開き直り、「お上手ですね」とほめられるより、発音や文法がどうであろうと外国語で意思を疎通させようという覚悟、これを少年時代に、だれかに叩き込んでもらいたかった。前置詞がどうのこうのといった枝葉末節の受験英語技術よりも、笑われのは恥ではない、まちがいを笑うことこそが恥になるということを教わっておきたかった。そういうわけで近ごろの私は、電車へ外国人が乗ってきても目を伏せないようにつとめている、これが語学上達のための第一歩だと信じて。