2/3「戦前の面影をたずねて - 吉村昭」文春文庫 東京の下町 から

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2/3「戦前の面影をたずねて - 吉村昭」文春文庫 東京の下町 から

さらに日暮里駅寄りに、大正四年に店をひらいた日暮という和菓子屋がある。この店があった場所には、作家の田村俊子氏の住んでいた家があった。その家の前の道を入ると、田村氏の師でもあった文豪幸田露伴氏や日本画家の木村武山氏が住んでいた。
御殿坂をくだって日暮里駅の陸橋の石段をおり、駅前の道を左に歩いて、横山浅次郎氏の営む乾物屋に立寄った。氏の家は、祖父の代まで日暮里有数の大地主であったが、祖父が諏訪神社の祭礼に根岸の芸者を総あげし、手古舞の衣装をつけさせて町を練り歩かせたことで、家産を散じてしまったという逸話が残っている。氏は十五代目だ。
氏は、戦死した私の四兄と小学校時代の同級生で、兄が入営前まで親しく交っていた。兄の名は敬吾で、氏はケイちゃんと言って兄のことをなつかしそうに回想する。氏は現在六十五歳だが、二十三歳で死んだ兄も生きていたら、氏のように頭髪白くなっているのか、と思った。
私は、兄と親しくしていた女性がいたことを知っていたので、そのことについてたずねてみると、氏は、ためらいがちに兄と女性のことを話してくれた。その女(ひと)と肉体関係もあったのだろうと想像していたが、氏の言葉はそれを裏づけるもので、若くして戦死した兄のことを思うと、むしろ救われた思いであった。
氏が、店の裏から紙の貼られた戸板ほどの大きさの板を持ってきた。戦前の町の家並が、記憶をたよりに記入されている。駅前の広場に面した家並の図に、私の胸にも記憶がよみがえった。果物、煙草、靴、綿、金物、餅菓子をそれぞれ商う店の間に凧専門店があるのが面白い。たしかに凧を売っていた小さな店があって、店頭に凧糸の束がいくつも吊りさげられていたのを思い出した。
氏の家を出て駅前をすぎ、根岸にむかう道を進んで善性寺の手前の道を左に入った。中学生時代から空襲時まで住んでいた所なのだが、何度行ってみても家のあった場所がわからない。善性寺の裏手を走る広い道路に吸収されたとしか思えず、私は、トラックや乗用車の往き交う路面をぼんやりとながめた。
善性寺と羽二重団子の向き合う道を歩き、根岸に入って、露地を右に曲る。戦前、近くに俳人正岡子規の住んでいた家があることを耳にしてはいたが所在は知らず、戦後も足をむけたことはない。露地の両側には連れ込みホテルが並んでいた。
その一つの入口で、水を流して掃除をしている女従業員に子規庵をたずねたが、知らない、と言う。が、庵は十数メートル歩いた所にあった。
文化財としての説明を記した板が立っていて、それによると戦災で焼けたが復元したという。子規は明治二十七年二月にこの地に住み、三十五年九月十九日に死去したとある。
庵の前をはなれ、根岸の柳通りで昼食をとり、坂本の通りに出る。左へ行くと三ノ輪、右に行くと上野方向に通じる。その通りには、戦前からある提灯屋、蝋燭屋、東京染めの染物店などが戦災にもあわず現存していた。それらの店が眼になじんでいるのは、軽演劇、映画を観に浅草まで歩いてゆく途中にあったからである。
タクシーを拾い、浅草へ行く。国際劇場は閉鎖され、その跡地にホテルの建築工事がおこなわれていた。
その前で下車し、浅草六区の映画街に入る。角を右に曲った所に、戦前には、二流映画会社であった大都映画の専門封切館だった大都劇場があった。阿部九州男、琴糸路、杉山昌三九らが主演する映画を上映していて、客席が朱色のシートの綺麗な館だった。他の映画館がトーキー映画を上映していた頃でも、まだ無声映画を上映し、弁士が口演していた。
道を進むと、右側に花月劇場が残っているが、工事中であった。川田義雄、増田喜頓、芝利英坊屋三郎の「あきれたぼういず」や柳家三亀松が出演し、シミキンこと清水金一の「新生喜劇座」が軽演劇で人気を博していた。私が最も通ったのは、この劇場だった。
その前を過ぎると、右角に東京の映画館を代表する一つであった洋画封切館の大勝館の建物があるが、ポルノ洋画の映画館とゲームセンターなどになっている。
さらに歩いてゆくと左手に洋画専門館の東京倶楽部、古川緑波ひきいる「笑の王国」が旗上げした常盤座が浅草トキワ座となっていて、寿司屋横丁入口の日本館も現存している。
私は、歩いてきた映画街を振返った。幟が立ち並び呼びこみの声が絶え間なかったその街は、ただ路面のある閑散とした地になっている。江川劇場、遊楽館、万成座、三友館、千代田館、電気館、金竜館、金車亭、富士館、帝国館などはすべて消えている。エノケン一座が旗上げをし、淡谷のり子が「雨のブルース」を歌った松竹座も、家具置場になり、それも廃されるらしい。閉鎖された松竹演芸場の取りこわし工事がおこなわれていて、丸い鉄板の看板がはずされていた。私はガスバーナーの散る火花を見つめた。