2/3 「二つの自白(民ー前編) - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

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2/3 「二つの自白(民ー前編) - 和久峻三」中公文庫 法廷生態学 から

ところが、一方、民事事件の自白になると、まったく、これと正反対に扱われる。
民事事件においては、「自白は真実である」という命題が、強く貫かれるのだ。任意性であるとか、補強証拠であるとか、まったく問題外である。
なぜ、こういう大きな違いが出るのか。それについては、次に詳しく説明する。
民事事件の場合、自白とは「自分に不利益な相手方の言い分を真実と認めること」を指す。
民事訴訟での自白の取り扱い方は、刑事事件の自白とは根本的に違っている。この違いを知ることこそ、刑事事件と民事事件との本質的相違を知ることでもある。
具体例をあげてみよう。
民事事件の法廷で、つぎのような場面に遭遇することが少なくない。
傍聴 席から見 て向って左側に、弁護士が座っている。これは原告側だから、その弁護士は原告代理人というわけだ。
一方、反対側の席には、中年の男が座った。ここは被告席であり - 刑事事件の被告人とは違う - その人物が弁護士でないところから考えて被告本人とみられる。
このように、民事訴訟では、訴える側が原告、訴えられた側を被告と呼ぶ。
この法廷では、訴えた側は、資格のある弁護士が訴訟代理人として出廷しているから、原告本人は出廷する必要はない。
これに反し、訴えられた側の被告の中年男は、弁護士に依頼していないから、本人自身が出頭しているわけだ。
やがて、裁判官が入廷し、正面の壇上に着席した。
まず、裁判官は、原告訴訟代理人に言った。
「原告は、訴状を陳述 しますね?」
これに対し、原告代理人である弁護士は答えた。
「はい。訴状通り陳述いたします」
訴状は、原告が提出する書面てある。あらかじめ、裁判所には訴状の正本が提出されている。
訴えられた被告には、その副本が送達されているわけだ。
正本も、副本も、その内容はまったく同じで、タイプ打ち、あるいは手書きでコピーして作成する。
「正本」と書面の右肩の上あたりにゴム印が押してあれば、それが正本。「副本」とあれは、それが副本というだけのことにすぎない。
いま、訴状には「原告は被告に対し、金二百万円を貸し与えたから、その返還を求める」という趣旨の記載があるとしよう。
この場合、原告が求める判決は「被告は、原告に対し、金二百万円を支払え」とい う構成をとる。(断っておくが、事案を簡略化するために、法定利息と訴状費用の点にはふれないことにする)
ところで、原告代理人が「訴状記載通り陳述します」とのべることによって、どういう判決を原告が求めようとしているか、それが明白にされたわけである。
訴状は、単なる書面にすぎないから、それを提出しておくだけでは無意味であり、陳述しなければ裁判官はとりあげてくれない。いや、口頭で陳述しなければ、とりあげてはならないのである。
ただし、訴状にかいてある事柄を長々とのべるのではなく、「訴状通り陳述します」と一言のべれば、それで訴状の全部を朗読したことなる。
その場合、書記官は、原告、訴状陳述」と調書に記載する。
これで、初回期日に、原告側がなすべき ことは一応終った。
つぎは被告である。
被告としては、すでに原告の訴状の副本を受領しているわけだから、それに対する答弁書を前もって提出しておくのが普通である。
あらかじめ答弁書を提出しておきさえすれば、法廷で、「答弁書記載通り陳述します」と一言のべれば、それでいいわけだ。
裁判官は、訴状と答弁書とを突き合わせ、どの点について双方の間に争いがなく、どの点について争っているか、それを見分ける。
双方が争っている点についてのみ審理をすればよいのである。
しかし、いま、被告席に座っている中年男は、答弁書の書き方をしらなかったせいもあってか、あらかじめ答弁書を提出していなかった。
そこで、裁判官は、口頭で被告に対し答弁を求めた。
裁判官は、 被告本人に、こう言った、
「被告は訴状を読みましたか?」
「はい、読みました」
中年男は、ぎこちなく答えた。法廷へ出るのは、生まれて初めての経験らしい。
裁判官は、また言った。
「では、訴状に記載してある事柄について、どのように答弁しますか?」
「答弁と言いますと?.....」
中年男は、探るような眼を裁判官に注いだ。
裁判官は、被告には訴訟代理人がついていないこともあって、親切心を発揮した。
「つまり、こういうことですよ。原告から金二百万円を借りたのか、どうか。その点について答弁を求めているのです」
すると、即座に、中年男は言った。
「確かに二百万円は借りました。そのことについて、先日来、何回も原告と話し合ったところ、十回の分割払いでお返しするという条件で折り合いがつきそうになりましたので、安心していたんです。ところが、とつぜん、訴状が舞い込みまして、驚いておるところです。わたしとしては、借りたお金はお返しするのが筋だとは思いますが、いまのところは 手元不如 意で、全額一括してお返しすることができないような有様です。十回程度の分割払いなら、何とか金が工面できると思いますけど.....」
黙って被告本人の言い分を聞いていた裁判官は、原告代理人に向き直って言った。
「どうなんですか?原告としては、十回払いの分割弁済に応じる用意がありますか?」
すると、原告代理人は、憤然として、
「分割弁済なんて問題外です。原告としては、あくまでも訴状通りの判決を求めます。原告には和解の意思がまったくないわけですから、この程度で結審していただくよりほかないと考えます」
こういう論法でこられると、裁判官としては、原告代理人に、和解を無理強いすることはできない。
和解というのは、双方の合意があってこそ、成立するものであ り、どちらか一方が嫌だと言い張れば、和解にはならないのである。
しかし、ずぶの素人である被告の中年男には、そういう理屈はわからないから、なおも、彼は、原告本人との間に、どういう示談交渉のやりとりがあったかを、こと細かに裁判官にのべたてた。
裁判官が、いちいち頷き返していたので、被告としては、自分の言い分を充分に聞いてもらっているものと思い込んだことだろう。
やがて、裁判官は言った。
「それでは、これで結審します。判決の言い渡しは○月○日.....」
裁判官は、それだけ言って、つぎの事件の審理にとりかかった。
民事法廷では、重い鞄を提げた弁護士たちが沢山いて、自分の順番が回ってくるのを待っているのだ。裁判官としては、一つの事件に、いつまでも 時間を潰すわけにはいかない。
さて、言渡しの日に、どういう判決が下されるか。
法廷でのやりとりを聞いていただけで、専門家には、判決の内容が、どういうものか、判決書を見るまでもなくわかるのだ。
「被告は、原告に対し、金二百万円を支払え」
そういう主文になるはずだ。
判決理由も、至って簡単である。
「原告が被告に対し、金二百万円を貸し渡したことについては、当事者間に争いがない。したがって、主文の通り判決する.....」
要約すれば、そういう趣旨の判決理由になっているはずだ。判決書を手にした被告の中年男は、「こんな馬鹿な」と驚くことだろう。裁判官は、自分の言い分を少しも聞いてくれてはいなかったのだ。おそらく、彼としては、裏切られたような気持ちに なるだろう。
しかし、この判決は正しいのである。