1/2「解説 春画の扉を開いた人 - 辻惟雄」講談社学術文庫 江戸の春画-白倉敬彦著 の解説

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1/2「解説 春画の扉を開いた人 - 辻惟雄講談社学術文庫 江戸の春画白倉敬彦著 の解説

畏友白倉敬彦が亡くなって、はや三年になる。このたび、氏の著述を代表する『江戸の春画』が、講談社学術文庫から再刊されるのは喜ばしい。氏の専門とされた春画の部門に疎い私だが、この機会に解説の一文を添えさせていただくことになった。
江戸時代に「公然の秘密」として製作・流通していた春画は「春画及びその類の諸器物」の販売を禁止する条例が明治のはじめに作られてから、長い間日陰の存在となり、当局の厳重な監視下に
置かれていた。その中で林美一(一九二二ー一九九九)のように、真面目な春画研究を続け、「艷本研究」シリーズなど、数多くの著作を残した先達もいるが、彼の出す本は、春画を楽しむことからはほど遠かった。散逸した浮世絵師の艷本の発掘とそれらの出版年代、原本・異本・後摺りのもっぱら書誌学的な考証に終始し、内容の急所にはほとんど触れていない。図版や挿図も、肝心の箇所が銀でぼかされている。そんな厳しい制約の中で、映画会社での時代考証の仕事で生計を立てたり、時には警察の取り調べを受けたり、苦難の年を重ねた。後述の春画解禁によって彼にもようやく「遅すぎた春」が到来し、超多忙の中、七十七歳で亡くなった。林氏の晩年に起こったこの思わぬ自由の到来は、実は本書の著者白倉敬彦が仕掛けた大胆な出版企画の結果として獲得されたものである。
ここで白倉敬彦さんの略歴を紹介すると、氏は一九四〇年北海道生まれ、早稲田大学文学部仏文科を中退し、現代美術の世界に入った。プロデューサー、編集者として、瀧口修造吉増剛造、若林奮ら、著名人と交際し、時には彼らとのパフォーマンスにも参加するなどの経験は、著書『夢の漂流物ー私の七〇年代』(みすず書房二〇〇六)に記されている。後に国際浮世絵学会に入り、専門家と交流して、独学で浮世絵を学んだ。学会に属する研究者が、春画を依然タブー視するなかで、白倉さんは全蹤(せんしょう)の林氏や、林氏と並ぶ春画の大家、米人リチャード・レインらの艷本研究を生かしながら、独りひそかに研鑽を積み、豊富な知識と情報を蓄えた。

氏が、前衛美術界から抜け出し、浮世絵、それも春画の世界に身を投じた動機については、残念ながら聞き漏らした。だが林氏と同じくフリーの立場に終始した氏の生活は厳しかったらしい。若い時に結核を患い、片足を引きずって歩く姿は頑健とは程遠かった。だが、氏の春画研究が単に生活のために始められたとは思えない。なぜなら、当時の浮世絵春画の置かれた状況は、前記の如くであったからだ。
欧米では、すでにポルノ解禁が早くから行われ、春画の出版も、一九七〇年代あるいはそれ以前から自由だった。一九七二年、私は初めて渡米したが、書店ではSHUNGAと背表紙に大書した図録や、中国の春画道教の関係を解説する本が目立った。そんな欧米の状況をよそに、春画を規制する日本の当局の態度は、明治の時と依然変わらなかった。
一九八九年、梅原猛の監修で、『人間の美術』全十巻が学習研究社により企画された。そのとき、浮世絵の巻に、春画のカラー図版が載せられたが、編集部の配慮か、局部が従来通りトリミングされてしまう。これを見た白倉さんは、同社に大胆な企画をぶつけた。顔つきも物腰も穏やかな白倉氏の心に秘められた反骨に火がついたとおもわれる?
白倉氏の熱意ある説得により、一九九一年から翌年にかけ、『浮世絵秘蔵名品集』という題名で、四冊の超豪華な図録が学習研究社から出版された。春信、清長、歌麿北斎らによる春画・艷本の代表作を厳選した内容はまさに春画の画期的出版であり、以後今日まで、これに匹敵するものは見当たらない。だが、白倉氏の名はこの叢書のどこにも見当たらない。彼はあくまで匿名の、編集者兼執筆助手として終始した。監修者として表面に出たのは、図版解説の役に当たった浮世絵専門家 - 小林忠、浅野秀剛、早川聞多、内藤正人、大英博物館学芸員ティモシー・クラーク、それに、浮世絵専門家とはいいがたい辻惟雄の名である。私の名は、新聞広告で、監修者の筆頭として載せられた。私は、この企画が当局の目に触れる場合のことを心配したが、企画はすでに当局に届け済みであり、見本をみた担当者はその芸術に感銘して即座に許可してくれた、と聞いていささか安心した。
図録の執筆者は、浮世絵専門家とはいえ、春画のことはいずれも不案内だった。例外は早川聞多のみである。彼は白倉氏の全面的協力を得て、京都の国際日本文化研究センターに、春画、艷本ねコレクションを着々と築きつつあった。今ではそれが、国の所有する貴重な文化財になっている。その早川氏すら、執筆に際しては、白倉さんの博識に負うところが少なくなかった。私など、文字通り手取り足取りの指導を受けた。出版の結果は、高価な本の完売となり、「こんな本がまさか出るなんて」と感謝のアンケートが多く寄せられた。本書『江戸の春画』の姉妹編ともいうべき、講談社学術文庫版『春画の色恋』(二〇一五)の解説で浅野秀剛がいうとおり、これによって、春画研究史春画出版史が大転換を遂げた。まさに浮世絵研究史上の快挙である。