(巻二十二)わらじ売る店に新酒をたづねけり(寺田寅彦)

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5月29日水曜日

雨が上がらぬうちに出勤となりました。
車中にから電話を寄越せとメールが入った。仕方がないから、降りて電話すると“急がないから後でよい。”とぬかしおる。「都合のよい時に、」と添えておく気配りがない。

会社に着いてから電話をしてみればに頼まれた楽器の宅配屋さんへの依頼の段取り相談である。「一人で出来んだろ!」と怒鳴りたくなったが、我慢した。



定例ミーティングがありましたが、売掛金の回収率の話でした。パートのお爺さんには、まあ、どうでもよい話でした。
新しいボスはどちらかと云えば辛抱強いタイプかな?回転は速く、筋論を大事にするようです。
あたしの一番苦手な西岸米語なのでなかなか言っていることが解らない。まあいいか。

午後はボス、アーティ、マギーと客先に参りました。
ボスは物事を動かすタイプでもありまして、あたしの苛々はかなり解消されて参りました。



「品格 - 筒井康隆講談社文庫 創作の極意と掟

を読みました。檀ふみさんも苦労されていたのですねえ?

『 最後の無頼派と言われた檀一雄は、舞台女優の入江杏子と愛人関係にあり、山の上ホテルで同棲を始める。家庭を顧みない放蕩であり、通常ならば倫理性を疑われてもしかたのないところだが、彼は「どのような不埒な生きザマであれ、絶えず己の頂点にあり、絶えず己に指令している人生でなかったら、何になろう」と言って恥じるところがない。子供が窃盗事件を起したため警察で係官から家庭環境について苦言を呈されても、堂堂と反論する。そして自分の生き様を、長い時間かけて苦吟しながら「火宅の人」という長篇に結実させて発表し、死後、文学賞を受賞する。この作品に関しては「グウタラ作家檀一雄」という見出しで論評されたりもするのだが、己の生きザマを貫いて、堂堂と亡びに至る覚悟であり、わが生存の審美的覚悟まで変えるわけにはゆかないと、何ら反省の色はない。
これこそが檀一雄の作家としての品格なのである。作家の品格として誰が持っていてもいい品格であるとさえ言える。妻や子を極度の貧困に陥らせ、後年女優・檀ふみとなった長女が腹をすかせて鶏の餌を食べたりしていても、パリなどを放浪していて家にもどらないような人間に品格があるのかと言う人もいようが、ここはあくまで作家としての品格を論じているのである。』