「五十年前[ぜん] - 塚原渋柿園」岩波文庫 幕末の江戸風俗から

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「五十年前[ぜん] - 塚原渋柿園岩波文庫 幕末の江戸風俗から

歴史は僕に種々(いろいろ)なことを教えてくれた。
その教えたのは、単に政府の交代や、人間の生死(いきしに)の事ばかりで無い。世間のあらゆる事物の進退、消長について説明し、指示してくれた。すなわち生物学は、人獣虫魚、すべて生有る物の歴史である。経済学は、国家の一員たる、もしくは一家の私人たる我々が生活上、須臾(しゅゆ)も離るべからざる物貨についての歴史である。その他神学でも、哲学でも、美学でも、兵学でも、およそ学問と名のつき、その事物の連続的、系統的に組立てられたものは、皆歴史である。だから歴史は、人生の全般(すべて)だ。僕、否、誰でも、この意味からの歴史には、日常細大の事を選ばず、これまでも教えられて来た。おおかた今後も教えられつつ、その生を送るであろう。
その中(うち)、僕の最も深く教訓せられたのが、維新当時の社会変遷の学である。この中にはその多くを含む。ほとんど学問としての全体を含んで居た。すなわち一方、因果公律から、一方、霊肉の双関にまで、華麗に、精確に、明白に、的切に、むしろ残酷と思われるまで、僕等の面前(まえ)にパノラマ的展開をなして、沈痛の教訓を与えてくれた。- 僕の修養(とも言い得べくんば)は、実に、全くここにある。
爾来(じらい)五十年間(僕は嘉永元年の生れで、この維新の慶応四年は二十一の年だった。慶応四年、すなわち明治元年だから、今年大正四年まで四十八年。約五十年ということに為る)の生活の取捨、進退去就。別に議論らしい議論も無いが、有ればその実践から得た議論、更に言うべき操守もないが、あればその実感から来た操守で、僕の全般(すべて)は悉皆(みな)この裏から出た物である。
それがほんの一部を書いたのが、この短著である。これは先年博文館の需(もとめ)に応じてその雑誌に上(のぼ)せたもの、その時は明治三十五年だから「三十五年前」と名を命(つ)けたが、今は五十年後の回想録となるのだから「五十年前」と改めた。
維新の当時、- 慶応三年の暮から翌四年、すなわち
明治元年に亙(わ)たる江戸の変遷の有様を、私が見た通り、否、むしろ出遇ったままのそのままをすこしも飾らずに小説気を離れて話をして見ようと思う。- 然様(さよう)、その順序は、三年の暮の芝の薩摩邸焼討がまず最初であろう。それから淀鳥羽の戦争を江戸で聴いた時、前将軍家(慶喜公)の東帰、江戸の開城、その冬に私共が静岡に移住した時の惨状(さま)。かの地へ行ってから旧幕府の武士 - 所謂る無祿移住の士族の面々が如何な艱難(かんなん)を嘗めたかという、その物的、心的、両面からの非常な圧迫を受けた、其事(それ)なのだ。
蓋(おも)うにこれ等の次第と云うは、今なお親しく見聞(けんもん)された御人もあろう。しかし実際その艱難に出遇って見た者で無ければ知らぬ話も多くある。いやまたその難義と云ったらとても想像などの及ぶべき的(もの)では無いから、無論明治の以後に産れた御人には夢にもと云うものである。で、あるいはこれは維新史編纂の材料の片端にもなろうかも思うのが一つと。今一つは、近ごろ或る一、二の小説などを見ると、かの当時(とき)の事情と全(まる)で反対した事が書いてある。例えばあの時徳川氏の旗本家人で「朝臣」と云うになった人達を、何か非常に抜擢でもされた、栄典でも蒙むったように云ってあるのも往々有る。処がその実、右とは正反対で、あの時朝臣になった者をは官軍の方でも余り珍重せぬ。ましてその世間からは非常に妙な悪感情を持たれて、- 詰りは「開化(ひらけ)ぬ」という話であろうが、魚屋八百屋でもその屋敷には物を売らぬと云うような有様もあったのだ。それからしてその当人もその当時は人にも面会(あわ)ず、偶(たまたま)会えば赤面して、「私共も駿河(あちら)へ御供をしたいのですが、家内にこれこれの難義がある」とか、「親類に云々(しかじか)の苦情が出た」とかで、「誠に残念ながら、実に、余儀なく.....」と捫手(もみで)をして謝っていたいた位いである。だから当時の有のままを正銘で語(い)ったら、あたるいはその意外に驚かれる人もあろうが、その驚かれる処がこの話の生命(いのち)。長生をして見ると、また思い寄らぬ色々の面白い事もある。他人は知らず、僕にはこの書いた事実(ことがら)が全く右の一代の教訓だ。すなわち僕が身における、特殊の「歴史の教訓」だ。