「遊戯良寛(抜書) - 上田三四二」新潮文庫 この世この生 から

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「遊戯良寛(抜書) - 上田三四二新潮文庫 この世この生 から

漱石のいわゆる修善寺の大患を私は自分の体験をとおして見直すことがあったが、その「思ひ出す事など」三十三章のうち、私の眼をもっともつよく惹きつけたのは第十九章末尾のこんな個所であった。吐血は一時漱石の意識を奪った。医師は家族に覚悟をうながした。その危機をくぐり抜けて、安静に身を横たえる病者は篤[あつ]い看護の手のしたでこう考える。 
「四十を越した男、自然に淘汰せられんとした男、左したる過去を持たぬ男に、忙しい世が、是程の手間と時間と親切を掛てくれようとは夢にも待設けなかった余は、病に生き還ると共に、心に生き還つた。余は病に謝した。又余のために是程の手間と時間と親切とを惜まざる人々に謝した。さうして願はくは善良な人間になりたいと考へた。さうして此[この]幸福な考へをわれに打壊す者を、永久の敵とすべく心に誓つた。」
世間との和解である。世間との和解にいたる以前の漱石は、世間を敵と見た。人生を闘争と考えた。そして生活を土俵の上の相撲になぞらえた。
「自活の計[はかりごと]に追はれる動物として、生を営む一点から見た人間は、正に此相撲の如く苦しいものである。吾等[われら]は平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾等と吾等の妻子とに与へんがために、此相撲に等しい程の緊張に甘んじて、日々[にちにち]自己と世間との間に、互殺の平和を見出[みいだ]さうと力[つと]めつつある。戸外[そと]に出て笑ふわが顔を鏡に映すならば、さうして其[その]笑ひの中[うち]に殺伐の気に充[み]ちた我を見出すならば、更に此笑ひに伴う恐ろしき腹の波と、脊[せ]の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、回向院のそれの様に、一分足らずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に想ひ至るならば、我等は神経衰弱に陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあると迄言ひたくなる。」
苦汁の言はなおつづいて、飛沫[ひまつ]をあげる。
「かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中は悉[ことごと]く敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引き延ばすならば、朋友もある意味に於て敵であるし、妻子もある意味に於て敵である。さう思ふ自分さへ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめ得ぬ戦ひを持続しながら、けいぜん[難漢字]として独り其[その]間に老ゆるものは、見惨[みじめ]と評するより外に評しやうがない。」
病む漱石に惨苦と修羅のこの認識は消えて、舞台が回ったようにちがう光景があらわれる。
「今迄は手を打たなければ、わが下女さへ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくら仕[し]ようと焦慮[あせ]つても、調[ととの]はないことが多かった。それが病気になると、がらりと変つた。余は寝てゐた。黙つて寝てゐた丈[だけ]である。すると医者が来た。社員が来た。妻[さい]が来た。仕舞には看護婦が二人来た。さうして悉く余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。」
「......仰向に寝た余は、天井を見詰めながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住み悪[にく]いとのみ観じた世界に忽[たちま]ち暖かな風が吹いた。」
このようにして漱石は世間と和解する。思いがけない世間の親切を蒙[こうむ]った漱石は、親切に感じて「願はくは善良な人間になりたい」と考える。「此幸福な考へをわれに打壊す者を、永久の敵とすべく心に誓」うとまで思いを深める。
私が死病をしのいで得た感想もこれにちかい。まったく同じだと言おう。ただ私は病む以前において漱石ほど人生を闘争の場とは見なかった。わが居る場所が他人にとって場塞[ばふさ]ぎと感じられていると知ることはあり、また事実そのとおりと思うことはあった。そう思っても場所を空けるほど謙譲ではなかったかわり、押入ってくる者と相撲をとる気もなかった。せいぜい足を踏ん張って立っているくらいのところである。そしてその立つ場所も人を押しのけて得たものではなかった。結果的には誰かを押しのけたことになっているとしても、目に見えている人をわざと押しのけたことはなかった。私のような気負いの乏しいものは、仕掛けられればたちまち押出されたり倒されたりしただろうに、そういうこともないまま、世を渡ってこられた。私の居場所がほとんど目立たないどうでもいいような場所であったためもあろうが、そのことは私に世間を見る眼を漱石よりはいますこし敵意のすくないものにするのに充分だった。
したがって病後における私の世間との和解は、漱石の場合とはちがってそれまでの考えを徹底させれば足りるものであったけれども、「忙しい世が、是程の手間と時間と親切を掛てくれようとは夢にも待設けなかつた余は、病に生き還ると共に、心に生き還つた。余は病に謝した。又余のために是程の手間と時間と親切を惜まざる人々に謝した。さうして願はくは善良な人間になりたいと考えた」点においと一致した。

(巻二十六)雨欲しき国に日は入り蚊食鳥(室積徂春)

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(巻二十六)雨欲しき国に日は入り蚊食鳥(室積徂春)

6月23日火曜日

梅雨空のなか、細君は歯医者に出かけて行った。歯医者さんも客足が止まってしまったようで、向こうから予約が取れると電話がきたそうだ。

そういうわけで昼食は備蓄白飯と即席担々麺といたした。赤いキツネのうどんが続いたので目先を変えてみたが麺は細くスープは辛く挽き肉もあり、十分に美味しい。敢えて申せば新橋の天下一の赤担々麺と遜色ない。この即席担々麺に秘技があるとすれば、それはボリュームが少なく喰い足りないという未練が残ることだ。このもう少し喰いたかったという食い意地が旨かったという捻れた記憶を残すのだろう。

(写真に撮ると憐れを誘うなあ。)

散歩と買い物

先ず最初に住民税と国民健康保険料を納付しに郵便局へ行った。当該納付合計額は私の年金受給額の三分の一に迫ります。そんな大金を途中で無くしたり盗られた大変ですから、しっかり肩掛け鞄に入れ、襷掛けにして郵便局に行きました。

「お預かりいたします。」というのがこの場合の決まり文句らしい。

あとは図書館と生協で、生協では米を二キロ買いました。

本日三千九百歩、階段一回でした。

細君が手作りパン屋の餡パンを買ってきてくれた。やはりヤマザキパンの空間のある餡パンとは違い小振りではあるがズッシリとしていた。旨し。

生活はつましく、心は豊かに、そして結末はポックリが訓であります。

願い事-叶えてください。

BBC:CrowdScience

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CrowdScience 

https://www.bbc.co.uk/programmes/w3cszv5s

Do animals have consciousness?

Animals can’t simply tell us about their thoughts and feelings – so can we ever find out about their inner worlds?

consciousnessの定義がないようで、そこのところから判りにくい。デカルトも登場して人間とそれ以外の動物は違うと言っておりました。

0345:To answer this question, first we need to make sure we are all talking about the same thing. Consciousness is a mysterious and elusive concept.

人間が鏡を見て自分を意識するのは生後一年半してかららしい。

 1040:The mirror self recognition test

1130:Human  can pass it but not until where about 18-month old. Gorillas, orangutans, they can pass the mirror self recognition test. Perhaps dolphins, maybe elephants, maybe also killer whales.
So things like dogs, cats, monkeys, all  those other creatures, no real evidence that they can pass this mirror self recognition test.

私には馴染みのないお話でしたが、
岸田秀氏が『死はなぜこわいか』で動物には自己がないから死を意識しないと書いていたのを思い出した。

英語の面白い表現ということであれば、

0120:I couldn’t help but realizing that ......という懐かしい用法が表れた。

後半は、豚とか烏賊とかの実験の話であります。気が向いたら後日じっくり聴いてみます。

3/3「寺じまの記 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上) から

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3/3「寺じまの記 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から

呼ばれるがまま、わたくしは窓の傍らに立ち、勧められるがまま開戸[ひらきど]の中に這入[はい]って見た。
家一軒について窓は二ツ。出入[でいり]の戸も二ツある。女一人について窓と戸が一ツずつあるわけである。窓の戸はその内側が鏡になっていて、羽目の高い処に小さな縁起棚[えんぎだな]が設けてある。壁際につッた別の棚には化粧道具や絵葉書、人形などが置かれ、一輪ざしの花瓶[はないけ]には花がさしてある。わたくしは円タクの窓にもしばしば同じような花がさしてあるのを思い合せ、こういう人たちの間には何やら共通な趣味があるような気がした。
上框[あがりかまち]の板の間に上ると、中仕切りの障子に、赤い布片[きれ]を紐のように細く切り、その先へ重りの鈴をつけた納簾のようなものが一面にさげてある。女はスリッパアを揃え直して、わたくしを迎え、納簾の紐を分けて二階へ案内する。わたくしは梯子段を上りかけた時、そっと奥の間をのぞいて見ると、箪笥、茶ぶ台、鏡台、長火鉢、三味線掛などの据置かれた様子。さほど貧苦の家とも見えず、またそれほど取散らされてもいない。二階は三畳の間が二間、四畳半が一間、それから八畳か十畳ほどの広い座敷には、寝台[ねだい]、椅子[いす]、卓子[テーブル]を据え、壁には壁紙、窓には窓掛、畳には敷物を敷き、天井の電燈にも装飾を施し、テーブルの上にはマッチ灰皿の外に、『スタア』という雑誌のよごれたのが一冊載せてあった。
女は下から黒塗の蓋のついた湯飲茶碗を持って来て、テーブルの上に置いた。わたくしはくわえていた巻煙草を灰皿に入れ、
「今日は見物に来たんだからね。お茶代だけでかんべんしてもらうよ。」といって祝儀[しゆうぎ]を出すと、女は、
「こんなに貰わなくッていいよ。お湯[ぶ]だけなら。」
「じゃ、こん度来る時まで預けて置こう。ここの家は何ていうんだ。」
「高山ッていうの。」
「町の名はやっぱり寺嶋町[てらじままち]か。」
「そう。七丁目だよ。一部に二部はみんな七丁目だよ。」
「何だい。一部だの二部だのッていうのは。何かちがう処があるのか。」
「同じさ。だけれどそういうのよ。改正道路の向へ行くと四部も五部もあるよ。」
「六部も七部もあるのか。」
「そんなにはない。」
「昼間は何をしている。」
「四時から店を張るよ。昼間は静かだから入らっしゃいよ。」
「休む日はないのか。」
「月に二度公休しるわ。」
「どこへ遊びに行く。浅草だろう。大抵。」
「そう。能[よ]く行くわ。だけれど、大抵近所の活動にするわ。同なじだもの。」
「お前、家[うち]は北海道じゃないか。」
「あら。どうして知ってなさる。小樽だ。」
「それはわかるよ。もう長くいるのか。」
「ここはこの春から。」
「じゃ、その前はどこにいた。」
「亀戸[かめいど]にいたんだけど、母[かア]さんが病気で、お金が入[い]るからね。こっちへ変った。」 
「どの位借りてるんだ。」
「千円で四年だよ。」
「これから四年かい。大変だな。」
「もう一人の人なんか、もっと長くいるよ。」
「そうか。」
下で呼鈴[よびりん]を鳴す音がしたので、わたくしは椅子を立ち、バスへ乗る近道をききながら下へ降りた。
外へ出ると、人の往来[ゆきき]は漸くしげくなり、チョイトチョイトの呼声も反響するように、路地の四方から聞えて来る。安全通路と高く掲げた灯の下に、人だかりがしているので、喧嘩かと思うと、そうではなかった。ヴィヨロンの音と共に、流行唄[はやりうた]が聞え出す。蜜豆屋[みつまめや]がガラス皿を窓へ運んでいる。茹玉子[ゆでたまご]林檎[りんご]バナナを手車に載せ、後[うしろ]から押してくるものもある。物売や車の通るところは、この別天地では目貫きの大通であるらしい。こういう処には、衝立[ついたて]のような板が立ててあって、さし向いの家の窓と窓とが、互に見えないようにしてある。
わたくしは路地を右へ曲ったり、左へ折れたり、ひや合[あ]いを抜けたり、軒の下をくぐったり、足の向くまま歩いて行く中[うち]、一度通った処へまた出たものと見えて、「あら、浮気者」「知ってますよ。さっきの旦那」などと言われた。忽ち真暗な広い道のほとりに出た。もと鉄道線路の敷地であったと見え、枕木を堀除いた跡があって、ところどころに水が溜っている。両側とも板塀が立っていて、その後の人家はやはり同じような路地の世界をつくっているものらしい。
線路址[あと]の空地が真直に闇をなした彼方のはずれには、往復する自動車の灯が見えた。わたくしは先刻[さつき]茶を飲んだ家の女に教えられた改正道路というのを思返して、板塀に沿うて其方[そちら]へ行ってみると、近年東京の町端[まちはず]れのいずこにも開かれている広い一直線の道路が走っていて、その片側に並んだ夜店の納簾と人通りとで、歩道は歩きにくいほど賑かである。沿道の商店からは蓄音機やラヂオの声のみならず、開店広告の笛太鼓も聞える。盛に油の臭気を放っている屋台店の後には、円タクが列をなして帰りの客を待っている。
ふと見れば、乗合自動車が駐[とま]る知らせの柱も立っているので、わたくしは紫色の灯をつけた車の来るのを待って、それに乗ると、来る人はあってもまだ帰る人の少い時間と見えて、人はひとりも乗っていない。何処まで行くのかと車掌にきくと、雷門を過ぎ、谷中へまわって上野へ出るのだという。
道の真中に突然赤い灯が輝き出して、乗合自動車が駐ったので、其方を見ると、二、三輛連続した電車が行手の道を横断して行くのである。踏切を越えて、町は俄[にわか]に暗くなった時、車掌が「曳舟[ひきふね]通り」と声をかけたねで、わたくしは土地の名のなつかしさに、窓硝子に額を押付けて見たが、木も水も何も見えない中に、早くも市営電車向嶋の終点を通り過ぎた。それから先は電車と前後してやがて吾妻橋をわたる。河向[かわむこう]に聳えた松屋の屋根の時計を見ると、丁度九時......。

昭和十一年四月

(巻二十六)ふるさとの天に唾吐く雪降ろし(小森清次)

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(巻二十六)ふるさとの天に唾吐く雪降ろし(小森清次)

6月22日月曜日

一日中雨で、外出せず。

昼寝、読書、BBCpodcast、懐かしの昭和歌謡で一日終わる。

研ナオコで“かもめ”も聴いた。大橋純子も聴いた。五輪まゆみも聴いた。このICレコーダーは持っていく。

家事:

豚肉の甘辛焼きを担当した。

本日百七十歩、階段一回でした。

世事

区でやってくれる「特定健康診査」という簡易な“ドック”があり、昨年初めて受診した。オプションを付ければ脳ドックでも何でもやってくれるようだが、基本は胸部エックス線と心電図までで、尿検査・血液検査も含まれている。

二年目以降は登録されているので自動的に書類が送られてくることになっていて、待っていればよいのだが、うるさい細君が確かめろ確かめろとうるさい。

仕方かなく区役所のご担当に電話したら、私はリストに載っていて、書類は七月末に発送されるとのことでした。

図書館、ゴミ、健康診断など行政にはお世話になっております。

今日のご担当もテキパキかつ爽やかでありがたい。

読書

「私の死論は「夫が先に死ぬ」」-斎藤茂太 日本の名随筆8 から

を読んで「 比翼連理の枝」という言葉を知る。

《 七月にあいついで亡くなられた作家の船山馨さんのご夫妻は、まさしく比翼連理の枝に結ばれたご夫婦だが、私は自分の死後、女房には長生きしてほしいと思う。私から解放されて、一〇〇歳くらいまで楽しく生きてほしい。 》

茂太さんはこの随筆を、

《 とにかく父は俗世間のことはなにもわからない。反対に母は俗っぽすぎて、それでちょうどバランスがとれていた。

似た者夫婦というが、夫婦が本当に「似た者」だとしたら、その夫婦はあまりうまくいかないかもしれない。ふたりにプラスとマイナスがあり、そのプラスに対して身を引き、マイナスには出ていってそれを埋める。これがバランスのとれた夫婦というものだ。

死に方のバランスも、夫➡妻というのがよいのではないか。

いや、ぜひ、そうあってほしいと念願する。》

と、纏めている。

異を唱えるところなしである。

願い事-その順番で叶えてください。

BBC:The Bottom Line

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The Bottom Line 

https://www.bbc.co.uk/programmes/m000k32h

Consumer habits after lockdown

More take-away orders, a surge in bike sales, and flour flying off the supermarket shelves. Just some of our buying habits during lockdown. But which consumer habits will stick?

流行り病、自粛後の消費と消費者の動向を予測している(らしい)。

聞き取れた英語表現で“へぇ~”というのを書き留めてみました。また聞き取れないところも掲げましたのでご支援下さい。

0054:vanquish the virus = ヴイルスに打ち勝つというときはvanquishをつかうのか!

0528:up to scratch=よい状態、正常な状態、
It did take the number of weeks to get our supply chain to back up to scratch.と聞こえる。

0555:community is pulling together = 団結ってことかな?
 look out for each other = 助け合う、かな。

0625:footfall -客足、来店者のことらしい!

1040:stickability=習慣の定着性かな。

1253:revenge spend=自粛後の反動買い、ショッピングのことのようだ。

1330:own label brand =自社ブランド、プライベートブランド、つまり生協ブランドみたいなものだろう。

1510:viable proposition=実行可能な提案

1720:mid market restaurant =中流層向けのレストラン。

1725:hospitality industry=パブやレストランなど飲食業界のことらしい。

1745:high volume low margin=薄利多売かな?

2013:social reintegration=受刑者の社会復帰という例文が多いが、社会の再構築というような使われ方なのでしょう?

2120:lingering fear=恐れが長引く、尾を引く。


(聞き取れないところ)

 0501:I mean every retailer was side xxxxx really by some unprecedented punic buying.

この部分は分からない。unprecedentedでないとおかしいのでそうしてみたが、precedentedと聞こえていてunがつかめていないのです。

 0720:that may be xxxxx to stay で聞き取れない。新しい生活様式で定着するものがあるかもしれない。と言っているのだろうが掴めない。

1230:have seen their income xxxxx

xxxxxのところはdisolatedかなとおもうのですが、よく聞き取れない。意味としては収入の悪化でしょう。

1511: viable propositionに続く部分で、without, you know, true xxxxxbility for most families.

今日はここまで。

2/3「寺じまの記 - 永井荷風」岩波文庫 荷風随筆集(上) から

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2/3「寺じまの記 - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から

車から降りて、わたくしはあたりを見廻した。道は同じようにうねうねしていて、行先はわからない。やはり食料品、雑貨品などの中で、薬屋が多く、、次は下駄屋と水菓子屋が目につく。
左側に玉の井館という寄席があって、浪花節語[なにわぶしかた]りの名を染めた幟が二、三流立っている。その鄰りに常夜燈と書いた灯[あかり]を両側に立て連ね、斜に路地の奥深く、南無妙法蓮華経の赤い提灯をつるした堂と、満願稲荷とかいた祠[ほこら]があって、法華堂の方からカチカチカチと木魚を叩く音が聞える。
これと向合いになった車庫を見ると、さして広くもない構内のはずれに、燈影[ほかげ]の見えない二階家が立ちつづいていて、その下六尺ばかり、通路になった処に、「ぬけられます」と横に書いた灯[あかり]が出してある。
わたくしは人に道をきく煩[わずら]いもなく、構内の水溜りをまたぎまたぎ灯の下をくぐると、家[いえ]と亜鉛[トタン]の羽目[はめ]とに挟[はさ]まれた三尺幅くらいの路地で、右手はすぐ行止まりであるが、左手の方へ行くこと十歩ならずして、幅一、二間[けん]もあろうかと思われる溝にかけた橋の上に出た。
橋向うの左側に「おでんかん酒、あづまや」とした赤行灯[あかあんどう]を出し、葭簀[よしず]で囲いをした居酒屋から、鯣[するめ]を焼く匂いがしている。溝際には塀とも目かくしともつかぬ板と葭簀とが立ててあって、青木や柾木[まさき]のような植木の鉢が数知れず置き並べてある。
ここまでは、一人も人に逢わなかったが、板塀の彼方[かなた]に奉納の幟が立っているのを見て、其方[そちら]へ行きかけると、路地は忽ち四方に分れていて、背広に中折を冠[かぶ]った男や、金ボタンの制服をきた若い男の姿が、途絶えがちながら、あちこちに動いているのを見た。思ったより混雑していないのは、まだ夜になって間もない故であるのかも知れない。
足の向く方へ、また十歩ばかり歩いて、路地の分れる角へ来ると、また「ぬけられます。」という灯[あかり]が見えるが、さて其処[そこ]まで行って、今歩いて来た後方[うしろ]を顧ると、何処[どこ]も彼処[かしこ]も一様の家造[やづく]りと、一様の路地なので、自分の歩いた道は、どの路地であったのか、もう見分けがつかなくなる。おやおやと思って、後へ戻って見ると、同じような溝があって、同じような植木鉢が並べてある。しかしよく見ると、それは決して同じ路地ではない。
路地の両側に立並んでいる二階建の家は、表付に幾分か相違があるが、これも近寄って番地でも見ないかぎり、全く同じようである。いずれも三尺あるかなしかの開戸[ひらきど]の傍に、一尺四方位の窓が適度の高さにあけてある。適度の高さというのは、路地を歩く男の目と、窓の中の燈火[あかり]に照らされている女の顔との距離をいうのである。窓際に立寄ると、少し腰を屈[かが]めなければ、女の顔は見られないが、歩いていれば、窓の顔は四、五軒一目に見渡される。誰が考えたのか巧みな工風[くふう]である。
窓の女は人の跫音[あしおと]がすると、姿の見えない中から、チョイトチョイト旦那。チョイトチョイト眼鏡のおじさんとかいって呼ぶのが、チイト、チイ-トと妙な節がついているように聞える。この妙な声は、わたくしが二十歳[はたち]の頃、吉原の羅生門横町、洲崎のケコロ、または浅草公園の裏手などで聞き馴れたものと、少しも変りがない。時代は忽然三、四十年むかしに逆戻りしたような心持をさせたが、そういえば溝の水の流れもせず、泡立ったまま沈滞しているさまも、わたくしには鉄奬溝[おはぐろどぶ]の埋められなかった昔の吉原を思出させる。
わたくしは我ながら意外なる追憶の情に打たれざるを得ない。両側の窓から呼ぶ声は一歩一歩急「せわ」しくなって、「旦那、ここまで入らっしゃい。」というもあり、「おぶだけ上[あが]ってよ。」というのもある。中には唯笑顔を見せただけで、呼び止めたって上る気のないものは上りゃしないといわんばかり、おち付いて黙っているのもある。
女の風俗はカフェーの女給に似た和装と、酒場で見るような洋装とが多く、中には山の手の芸者そっくりの島田も交[まじ]っている。服装のみならず、その容貌もまた東京の町のいずこにも見られるようなもので、即ち、看護婦、派出婦、下婢、女給、女車掌、女店員など、地方からこの首都に集って来る若い女の顔である。現代民衆的婦人の顔とでも言うべきものであろう。この顔にはいろいろの種類があるが、その表情の朴訥[ぼくとつ]穏和なことは、殆ど皆一様で、何処[どこ]となくその運命と境遇とに甘んじているように見られるところから、一見人をして恐怖を感ぜしめるほどの陰険な顔もなければまた神経過敏な顔もない。百貨店で呉服物見切[みきり]の安売りをする時、品物に注がれるような鋭い目付はここには見られない。また女学校の入学試験に合格しなかった時、娘の顔に現われるような表情もない。
わたくしはここに一言して置く。わたくしは医者でもなく、教育家でもなく、また現代の文学者を以て自ら任じているものでもない。三田派[みたは]の或評論家が言った如く、その趣味は俗悪、その人品は低劣なる一介の無頼漢に過ぎない。それ故、知識階級の夫人や娘の顔よりも、この窓の女の顔の方が、両者を比較したなら、わたくしはむしろ厭[いと]うべき感情を起させないということができるであろう。