(巻二十三)シナリオの脱線つづく老いの春(丹後日出男)

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駿河台下三省堂


(巻二十三)シナリオの脱線つづく老いの春(丹後日出男)

9月5日木曜日

テレビ

皆様は御多忙のようですが、あたしゃ読書三昧とBBCで聴く力の訓練で四時間過ごしました。ちょっかいを出すのが一番宜しくないと思っております。

風呂からあがってガスを消し忘れたら烈火の如く叱られた。ボケたら折檻されそうだなあ。

本

「海外に出て行く。新しいフロンティア(抜き書き其の三) - 村上春樹新潮文庫 職業としての小説家

を読みました。

摘まみ食いで貼り付けるのは憚られますので、そのうちに一気に読んでください。
あたしは、村上春樹さんの小説は一篇も読んでいません。作品としては
『デイブ・ヒルトンのシーズン』だけしか読んでおりません。この作品はご紹介いたしておりますので検索すればお読みになれます。清々しい作品です。

 

「デイブ・ヒルトンのシーズン ー 村上春樹

 

それは素晴らしいシーズンだった。ヤクルト・スワローズ、一九七八年。 広岡こそが監督であり、松岡こそがエースであり、若松こそがバッターであった。チャーリー・マニエルは後楽園球場の最上段にホームランを叩きつけ、大矢は捕手として鉄壁の如くホームベースを守った。 その年のはじめ、僕は神宮球場の近くに(それが神宮球場の近くであるという殆んどそれだけの理由で)引越して、暇をみつけては毎日のように外野席に通っていた。少年時代やはり同じように通っていた甲子園球場に比べれば、当時の神宮はプロ野球のための球場にはまるで見えなかった。場末の闘牛場とでもいった方が雰囲気として近いかもしれない。外野には椅子席がなく、半分ばかりはげてしまっ た芝生の斜面は雨が降るたびに泥だらけになるし、風の強い日には耳の穴に砂がつまったものだった。それでも風のない晴れた午後の神宮球場の外野席は少なくとも東半球ではいちばん気持がよく、そして心温まる外野席だった。手描きのスコア・ボードのてっぺんには何羽もの鴉が退屈そうに腰を下ろし、春の日差しの下でスワローズの帽子をかぶった物好きな子供たちが斜面を転げまわって遊んでいた。 僕は二十九歳になったばかりで、その春から小説(のようなもの)を書き始めていた。小説(のようなもの)を書くのは生まれて初めてのことだ。ヤクルト・スワローズは球団創設以来、優勝経験のないまま二十九回目のシーズンを迎えようとしていた。言うまでもないことだが、その二つの事実のあいだには何 の関連性もない。たまたまそうだったということだ。 しかしそこにはもう一人の二十九歳の青年がいた。僕がいま語ろうとしているのは、彼についての短い物語である。いや、物語というほどのものでもない。僕は彼についての物語を語れるほど、彼のことを多くは知らない。それはむしろ断片に近いものだ。彼のひとかけら。シーズンという鋭い刃物によって切り取られた、彼の魂のひとかけらだ。そのひとかけらはしばらくのあいだ人々の心を - すくなくとも僕の心を - さまよった末に、次第にその鮮やかさを失い、やがては圧倒的な時の流れの中に消えていくことだろう。 七八年の四月一日に戻ろう。 快晴。 神宮球場のオープニング・ゲーム、プレーボールの午後一時、僕は芝生の上に ねそべりながらビールの二口めを飲んでいた。広島の投手は高橋(里)、そして最初の打席には彼が入っていた。彼の姿を見て何人かの観客は笑ったかもしれない。そして別の何人かは新鮮な予感のようなものを身のうちにふと感じたかもしれない。笑いの原因はもちろん彼の奇妙なバッティング・フォームにあった。バッターボックスの中で、まるでしゃがみこむように不器用に身を折り曲げ、まっすぐにバットのヘッドをぐるぐると回しながら、半ば挑みかかるように、そして半ば怯えたように高橋投手のグラブを睨みつけていた。ここは本当に闘牛場なのかもしれないな、と僕は考えたほどだった。 そして、あとになって思えばということだが、そこにはもうひとつ、新鮮な予感のようなものがあった。それに ついて説明するのは、簡単なことではない。ほっそりとした猫背の外人選手というだけでかなり「新鮮」ではあるとしても、それがどのようにして「予感」まで結びついていくのだろう?しかし予感というものが、大げさに言うなら、神に愛されるもののいっときの輝きであるとするなら、そこにはたしかにそれがあった。彼のまわりにだけ、春の日差しが余分に差しているような雰囲気であった。彼がアリゾナの(おそらく)小さな町から東京のグラウンドまで持ち込んできた、彼の魂のひとかけらが、その日差しを受けて輝いているようにも見えた。 それは見事なヒットだった。ボールは左中間をまっぷたつに裂き、ギャレットと山本浩二がボールに追いついた時には彼は二塁ベースの上に立っていた。それ彼の 名はもちろんデイブ・ヒルトン、その年のベスト・ナインの二塁手、夏の終わり近くまで打率のトップを守った男だ。あなたはおそらくまだ彼の名を覚えているだろう。七八年は彼のためのシーズンであり、そしてそれはほんの二年前のことなのだから。 そのシーズン、彼は打つたびに全力疾走を、そして時には絶望的なヘッドスライディング を試みつづけた。新聞(スポーツ新聞じゃないやつだ)は一面のコラム全部を使ってそのプレーを褒めあげた。彼は瀬戸際に追いつめられた日本シリーズ第四戦の最終回に今井雄太郎のカーブを信じ難いスイングで西宮球場の左翼ラッキーゾーンに打ちこんだ。そして年間を通じて神宮球場の選手出口からクラブハウスまでの短い道筋で、彼ほど真面目にファンの握手に応 えていた選手を僕は知らない。 しかし結局僕にとってのデイブ・ヒルトンはほころびたセーターを着てスーパー・マーケットの紙袋をかかえた一人の貧しげなアメリカ人である。 それは日本シリーズを目前にした十月始めの曇った日曜日だった。夕方近くになって、目に映らぬほどの初秋の細い雨が舗道を微かに濡らし始めていた。僕と妻が広尾にあるスーパー・マーケットを出た時、バス停の近くで小さな子供を連れたアメリカ人の夫婦がタクシーをつかまえようとしていた。その小柄なアメリカは息子を肩の上に載せ、左手にスーパー・マーケットの紙袋をかかえていた。子供の傍に立った少女のような母親に笑いかけ、彼女はにっこりと夫に微笑みかけ、父親は笑いながら淡い(ワクスン)ブルーの瞳で息子 をじっと見上げていた。 何かが僕の心を打った。開幕ゲームで僕が感じたあの予感にも似たものが、やはりそこにあった。そして僕は生まれてこの方、それくらい混じりけのない幸福の情景を目にしたことはなかったという気がした。彼らはどちらかといえば、質素ななりをした平凡な見かけのアメリカ人の一家だった。でも彼らの顔にはかげりというものがなかった。まるで小雨降る夕暮れの人混みに差し込んだ一筋の日差しのように、彼らの微笑みは明るく輝いていた。それが彼らを何かしら特別な存在にしていた。僕の心を打ったのは、そんな輝きの中心にある少し痛々しいまでの幸福感だったのかもしれない。 これがその時の彼のサインだ。 デイブ・ヒルトン.....少し字がぶれているのは仕方ないな 、君は息子と紙袋をかかえ、タクシーをつかまえようとしていたんだもの。 そして七八年のシーズンが終り、何もかもが変っていった。その素晴しいシーズンは二度と戻ってはこなかった。しかし僕に(あるいは君に)誰を責めることができるだろう?アリゾナからやってきた僕と同い歳の優しい目をした青年は、シーズンという時の流砂の中に消えていった。ただそれだけのことだ。 さよなら、デイブ・ヒルトン。は全 球団を通じての七八年のシーズン最初の安打であったと思う。