「ファンの顔なんて覚えてくれなくていいんです - 古橋健二」宝島社文庫 「おたく」の誕生!! から

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「ファンの顔なんて覚えてくれなくていいんです - 古橋健二」宝島社文庫 「おたく」の誕生!! から

しかし、イベント・マニアとは反対に、ひとりのアイドルに強い思い入れを持って、そのアイドルを一途に追いかけている人々もいる。
ここでは、そうした“個人アイドル思い入れ”タイプの代表である某国立大学三年生の青木昇さん(仮名・二十一歳)を紹介してみたい。彼が熱愛する(?)のは、テレビドラマやバラエティー番組でも活躍する中堅どころのキャラクターアイドルN(仮名にするのは「Nちゃんに迷惑がかからないように」という青木さんのたっての願いによる)。そして、青木さんは「Nちゃんが読んで面白がってくれればいい」と、ほぼ四カ月おきに手書きのマンガミニコミ誌『N』(B6判、三十二ページ)をつくり、イベント会場で彼女に直接手渡している。
その内容は、彼女がDJをつとめるラジオ番組での発言を中心に、各地のイベント、テレビや雑誌での様子をネタにした一ページずつのコマ割りマンガ。さらに、青木さんが足を運んだ各地のイベントの様子をカット入りで解説した“おっかけ日記”。それに、“N語録”なる彼女にまつまる事柄事典。試しに、“れこーど”を引くと、「①自分のはほとんど聴かないんだって。で、歌詞を忘れるのか。②Nちゃんがいなくたって針をレコードに落とせばそこにはNちゃんの世界が創り出される」とあった。
関西の田舎町に住む彼が、今年の五月から八月までの四カ月間に足を運んだNのイベントは全部で二十二回。そのうちの半分は東京を中心とした関東のイベント。それ以外にも西は山口から北は栃木まで、新幹線や夜行列車を駆使したその行動範囲は相当に広い。
しかし、彼は「今日も元気でやっているかな」と様子が見たくてついつい足が向いてしまうだけなのだと言う。テレビやラジオで姿を見たり声を聞くだけではどうしても不安なのだ。そして僕が、青木さんの顔は彼女も覚えているんでしょ?と聞けば、彼は語気を強めて「ファンの顔なんて覚えてくれなくていいんです」と、セリフ覚えの悪いNのことを心配して溜め息をつくのだった。
やっぱりファンの心理とはこうでなくてはいけない!僕は“マニア”と“ファン”とはかくも違うものかと、なかば感動しながら彼の話に相槌を打っていた。ところが意外なことに、この青木さんこそが、仲間うちでは「マニアのなかのマニア」と呼ばれる存在であったのだ。
青木さんのマニアとしての出発点は地図マニアである。幼稚園のときから地図を眺めるのが好きだった彼は、小学校一年のときにすでに詳細な日本地図や世界地図を描き、しかも自分で地図模型をつくって遊んでいた。そして、二年生になると今度は、自分で描いた日本地図の上に経線緯線を書き込み、NHKラジオの気象通報を聞きながら天気図をつけばじめた。しかも、天気図の描き方は、当時の愛読書だった百科事典の気象の項を読んで我流で覚えたものである。ちなみに、現在でもその習慣を続けているという彼が、これまでに描いた天気図の総枚数はおよそ七千枚にのぼる。
さらに、小学校の三年生になると、これに事件事故のスクラップが加わる。新聞の社会面
や三面記事の事故報道を見つけると、詳細な道路マップの該当箇所に×印をつけ、そこに事故の概要を記す。たとえば、「某年某月某日、タンクローリーが○○の踏切に突っ込み、死者○名」といった具合だ。
そして、中学時代のあだ名が「天才君」。今で言えば、雑学の大家ということにでもなるのかもしれないが、彼の頭には、百科事典や医学書、さらには理科年表などで得た膨大な知識が詰まっていた。そして、家でみるテレビと言えば、NHKのドキュメント番組。さらに高校に入ると天気図を描ける能力を買われて山岳部に入り、およそ俗世間とはかけ離れた仙人のような生活を送っていた。
ひとつだけ象徴時なエピソードを紹介しておけば、松田聖子がデビューした当時ちょうど中学生だった彼は、同級生たちが盛んに話題にしているその名前を聞いて、隣のクラスに新しい女の子が転校してきたに違いないと勘違いした。そして、PTAの会員名簿にその名前を書き入れようと、友達に松田聖子の住所を聞こうとしてクラスじゅうの笑いものになったのだという。
そんな経歴を持つ青木さんがなぜアイドルに夢中になってしまったのか?
たいした受験勉強もせずに地元の国立大学にストレートで入学した彼は、それまでの「クソ真面目で堅物」という自分に貼られたレッテルが嫌になって、イメチェンを図ろうとする。そして、彼の目に「今いちばん軽いもの」として映ったのがアイドルだった。
しかし、そこでも彼はマニアックだった。アイドル雑誌を買いはじめた彼は、その本に載っているアイドルの名前、そのデビュー曲、さらには生年月日などの詳細なデータを、カタログ的な知識として覚え込んでしまう。こうして入学一年目の冬を迎える頃には、彼の頭の中はマイナーアイドルのデータで一杯になっていた。
それがきっかけで、大学のアイドル研究会に誘われた彼は、そこで、ファンの人たちのアイドルを想う熱い心に触れることによって、はじめて人間愛(?)の世界に目覚めることになる。同好の士の存在があってはじめて、アイドルNと巡り合うことができたのだと青木さんは言う。
そして、彼は変わった。それまで実用書ばかり読んでひたすら知識を詰め込むことに快感を覚えていた青木さんは、アイドルNとの出会いによって身の回りにあるさまざまなものに感情移入ができるようになった。そして、それまでは自分が楽しめばいいと思っていた事柄でも、相手が楽しんでくれることが何よりだと感じるようにもなった。
それが宗教的な愛の境地なのか、はたまたいわゆる恋心というやつなのかは僕には判断のしようもないが、青木さんにとって、アイドルNが「人生の中で出会った大切な人」であることだけは間違いない。