2/2 「地図と旅行 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から

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2/2 「地図と旅行 - 加藤秀俊」中公文庫 暮しの思想 から


なぜ、大衆的な旅行文化が日本で発達したのか。第一に、三百年にわたる鎖国のおかげで、徳川時代の日本が、国内的には相対的に平和の時代であった、という事情がある。ヨーロッパ諸国が、近代化へのすさまじい変化をとげていた、まさしくその同時代に、日本では、かなりのんきに、泰平をたのしんでいたのである。
もちろん、時代劇映画や講談本でおなじみのゴマのハエや、雲助のごとき危険な人物が道中に出没したのは事実であったし、へんぴなところでは、山賊のたぐいが旅人をおびやかしたこともあった。だが、たとえば、東海道といったような、主要幹線道路に関するかぎり、まず、誰でも安心して旅行することができた。「道中地図」の社会的背景には、そのような、安定した徳川時代というものがあったのだ。
しかし、それだけではない。日本人を旅に誘うもっとも重要な原理として、おそらく、旅行というものはたのしいものだ、という思想があった。
そしてその間接的な契機は、わたしのみるところでは、日本における、宗教の世俗化である。
だいたい、江戸時代における、民衆の旅行の原型は、伊勢詣りであった。お江戸日本橋七ツ立ち、で、さて、旅行先は、といえば、伊勢である。そして、じじつ、多くの民衆が伊勢に行った。
だが、伊勢詣で、という宗教的な行為にはおマケがついた。精進落し、というやつである。落語の「大山詣り」などからもあきらかなように、神聖なる行為のあとには、快楽がゆるされた。いや、民衆の意識のなかでは、快楽追求の口実として、伊勢詣りがあり、大山詣りがあったのだ、といってもよい。
いささか、話題が飛躍するようだが、こんにちの日本の旅行文化にも、その伝統は脈々と流れているようである。「大山詣り」が、江戸の町内の男たちだけの団体旅行であったように、こんにちでも、たとえば、会社で男たちだけが団体で旅行に出かける。そして、旅先には、男たちの好色趣味を満足させるような、さまざまなくふうが待ちうけている。江戸と現代のちがいは、快楽の口実として、現代がもはや宗教を必要としていない、ということぐらいであろう。
はなしを本筋に戻そう。問題は「道中地図」であった。ふたたびわたしは、じぶんのもっている「道中地図」を眺めてみる。なんべんくりかえして眺めても、これはおもしろい。
なによりも感動的なのは、これらの「道中地図」が沿道の風物について、くわしい解説をしてくれていることである。たとえば、木曽路をたどると、「フルノ坂」という地名があり、そこには「落合五郎の旧セキアリ」と解説がつき、「西行坂」には「西行ノ石トイフ有リ」と説明がある。道中、見おとすことのできない名所、古蹟が、きちんと書きこまれているのだ。
まえにみたように、怪しからぬ心得の男たちが、旅行に出かけたのはたしかだし、例の弥次喜多にしたところで、かなり、好色失敗のエピソードをのこしている。だが、日本各地の風物をたのしむための旅行者たちも、あちこちに杖をひいた。芭蕉をひきあいに出すのは野暮といえば野暮だが、たとえば『東西遊記』を書いた橘南谿、『真澄遊覧記』をのこした菅江真澄 - その他多くのすぐれた紀行文の作家を、われわれはもっているのである。江戸時代は、旅行の時代であり、そこから「道中地図」がうまれてきたのであった。


まえに、わたしは、日本の地図が、いわば「関係」をあきらかにする関係的地図であって、近代地理学的な正確さにもとづく地図ではなかった、と書いた。そして、その伝統もまた、こんにちに尾をひいている。わたしは、こんにちの鉄道時刻表を見るたびに、それと「道中地図」とが、いかに似ているかにおどろいてしまう。鉄道時刻表のはじめのほうには、数ページにわたって日本地図がえがかれているが、あの地図の日本は、上下左右から、ぺしゃんと押しつぶされている。地理学的には、まったく不正確だ。しかし、各地間の「関係」はあきらかである。われわれは、そういう概念図で日本を理解することができるのだ。
「道中地図」のたぐいは、いわば、民間の実用旅行地図であって、日本における地図の歴史のうえでは、かならずしも正当な評価をうけていない。近代地理学を尺度にして考えるかぎり、たしかに「道中地図」は大いにインチキである。日本列島を、ほとんど直線的なものとして概念的に考えてしまう習慣がわれわれのあいだには多かれ少なかれあるのだが、それは「道中地図」の伝統によって培われたもののように思える。
だが、そうかといって、日本の地図がことごとく関係図として変形された地図であった、というわけのものではない。ここであらためていうまでもないことだが、江戸末期には伊能忠敬の、おどろくべき正確な地図がつくられている。
こんにちでいえば、いわば万歩計のごとき装置をつくったり、天文観測、実地測量を精密におこなって、かれはみごとな日本地図を完成した。弟子たちの力で、ぜんぶがまとめられたのは一八ニ一年のことだ。
現在のこっている「伊能図」をみると、それはきわめて正確で、日本列島がありのままに作図されている。もちろん、三角測量の方法などは蘭学によるものだが、その理解と応用は完全であり、地球をちゃんと球体としておさえ、緯度・経度もはっきり記入されている。かぎられた西洋知識の窓口をつうじて、これだけの地図を十九世紀はじめにつくった、というのは、明治以前の日本の科学の奇蹟のひとつ、というべきであろう。
じっさい、シーボルトは、日本にきて「伊能図」をみてびっくりしてしまった。かれは、早速、それを模写して本国のドイツにもちかえり、日本の科学水準の高さを示すものとして紹介したというし、また、のちに、イギリスが日本の測量をしにきたときにも、「伊能図」をみて、あらためて測量する必要なし、といって帰っていった。というエピソードもある。本格的な地図もまた、関係図的な実用旅行地図とならんで、江戸時代につくられていたのである。
「伊能図」のようなものがありながら、なぜ、実用地図は概念図でありつづけたのか。理由はきわめて簡単である。本格的な「地図」は、国防上、その他の理由から、為政者の手もとに極秘に保管されていたからである。じっさい、伊能忠敬が測地を各大名に申請してゆるされた、ということじたいが、当時の社会体制のなかでは異例のことであったのだし、また、できあがった地図は、幕府が保管した。こういう、正確な地図というものは、その性格も用途も、民間の旅行地図と、まったく別系統で、無関係だったのである。
その事情は、明治維新以後にもうけつがれた。陸地測量部は、陸軍の管轄下におかれ、精密な地図は、もっぱら非公開だったのである。われわれになじみ深い「五万分の一地図」が完全に自由に入手できるようになったのは、戦後のことなのであった。民衆の頭のなかにある「地図」は、依然として「道中地図」的なものが中心だったのではないか、とわたしは思う。
じじつ、どこからどこまで何キロで、その旅行に何時間かかるか、を知るためには、だいたい「道中地図」的イメージで間にあう。旅行先でもらうパンフレットなどに印刷されている地図も、おしなべて関係図の地図だ。それはそれでよい。
しかし、これからの旅行、とりわけ旅行によって何かを知ろう、というばあいには、「五万分の一」とまではいかなくても、ちゃんとした地形図をもってゆくことがのぞましいのではないか。
列車の窓から見える山 - その名前や高さは、地図を手もとにもっていればすぐにわかる。それは、かつて「道中地図」を片手に、南という字を手のひらに三べん書いて馬にのった旅行者には、まったく味わうことのできなかった大きなたのしみである。そういう特権をを、現代のわれわれは、もっと積極的に活用したほうがよい。もはや、日本列島の地理に秘密はないのである。