(巻二十三)名月や江戸にいくつの潮見坂(吉岡桂六)

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10月25日金曜日 

週に三日のパートのお爺さんは金曜日はお休みです。このような天気ですと、お休みはほんとにありがたい。風も強いのでプランターのミカンを玄関内に避難させた。雨音が大きい!

楽天で注文した『味覚極楽(子母澤寛)』がポストの中に届いておりました。伊丹十三氏の旅行時必携書籍とのことで興味を持った次第です。

歳時記は秋を入れたり旅かばん(川崎展宏)

あたしには、そういう一冊はございません。そういう一冊は自分で『随筆筆写控』に編纂することにしたんですよ。
病院の、それもホスピスで逝くのが終いの願いですが、そこのベッドなり車椅子なりで読む作品をコチコチしてデータにしています。
文庫本一冊から採れるのはいいとこ三作品くらいでしょうか。それでも三百本溜まりました。

死支度忘れがちなり菊枕(近藤一鴻)

本

「俳句における近代と反近代(一) - 外山慈比古」中公文庫 省略の文学 から

を読みました。先般ご紹介した飯田龍太氏の『月並礼讚』にも通じるものがあるんじゃないのかと、そんな読み方をいたしました。

《 俳句は近代芸術ではない - そういって、第二芸術論から烙印をおされたが、とにかく、第二ではあっても“芸術”であることは認められた。前近代的俳句も第二芸術までは経上がったことは認められたのである。そう思って喜べばいいと高浜虚子が述懐したと伝えられのはさすがである。第二芸術に対する俳壇の反応のうちではやはり群を抜いていると思われる。
しかし、たとえ第二という限定がついてはいても芸術と呼ばれることが俳句にとって真に幸福であるかどうかはまた別の問題である。俳句くらいは西欧先導の思考から解放されてもよいのではなかろうか。われわれが芸術というのはヨーロッパの近代芸術のことである。そういうものの概念規定に合致しないからといって、長い歴史と伝統をもつ文芸様式は少しも慌てるには及ばない。そう考えることはできないものか。》