「「反個性」の文芸(『俳句をつくろう-仁平勝』の書評) - 向井敏」背たけにあわせて本を読む から

 

 

「「反個性」の文芸(『俳句をつくろう-仁平勝』の書評) - 向井敏」背たけにあわせて本を読む から




数ある俳句理論家のなかでも、最も信を置くに足りる人はだれかと問われれば、私ならまず仁平勝の名をあげる。『詩的ナショナリズム』(初版昭和六十一年、冨岡書房)にはじまり、『虚子の近代』(初版平成元年、弘栄堂書店)、『秋の暮』(初版平成三年、沖積舎)、『俳句が文学になるとき』(初版平成八年、五柳書院)とつづくこの人の四冊の評論集さえ手にしていれば、矢でも鉄砲でも来いといった気分になる。
その仁平勝が珍しく初心者のための俳句入門書『俳句をつくろう』を公にした。気鋭の批評家にいかにもふさわしい、火花の散るような論陣を張った評論集の場合と違って、ここでは語り口は終始平易でかつ親身、黒田杏子の主宰する俳句結社、「藍生[あおい]」の協力を得て吟行と句会を企画し、俳句がつくられてゆく経緯をことこまかに録するなど、文字通り手取り足取りして初心者をはげますことにつとめている。
その一方で、要所要所にこの著者独特の俳句理論が配置されていて、実作にかかる前に「理屈でなっとくしたい」読者をも満足させてくれる仕掛けになっている。その理論のなかでも格別に強力なのがのっけから登場する。いわく、「反[アンチ]個性のすすめ」。
詩といわず、演劇といわず、小説といわず、すべて近代の文芸は個性的であることが至上の価値とされてきた。本来、伝統的な定型詩であるはずの俳句もそれに影響されて、専門的な理論書はもとより、初心者向けの手引き書も、古句の注釈書さえも、個性的な句をつくるのが究極の目的であるかのように語るのが通例だった。仁平勝はそうした「個性信仰」をしりぞけ、俳句の世界は「反個性」のうえに成り立っていると説くのである。
彼はます、萩原朔太郎の長篇詩「雲雀の巣」から、その要[かなめ]をなす一行、「利根川はぬすびとのやうにこつそりと流れてゐる」を引いて言う。

利根川を盗人のようだと思うのは、だれにも共通する感覚ではありません。その意味できわめて個性的な表現といえます。ここには作者の故郷にたいする屈折した気持ちが表れていますが、読む者はそれを読みとることで、「ぬすびと」という個性的な比喩に共感するのです。

しかし、俳句の表現はそういうものではないとして、仁平勝は今度は高浜虚子の写生句、「流れ行く大根の葉の早さかな」を引き、朔太郎の詩との違いをこう説く。

一方この作品には、個性の表現は見られません。初冬の川を大根の葉が流れていくのを見て、作者はそこの流れの速さを感じとっています。こうした風景は、だれもがすぐにイメージを共有できるでしょう。俳句はこの一行がすべてですから、そうしたイメージの共有が、そのまま読む者の共感につながらなくてはなりません。

そして、こうしめくくった。

 

もちろん個性は大事です。けれどもわたしたちは近代以降、個性的になろうとやっきになり過ぎてきた気もします。(中略)そもそも本当に個性的といえるのは、いつの時代もほんの一部の人たちであり、残りのわたしたち圧倒的多数は、みな似たり寄ったりの個性(とあえて呼ばなくてもいいもの)をもって生きています。だとすれば、圧倒的多数のほうにこそ価値があるという考え方も成り立つはずです。
俳句は、その圧倒的多数を支持する文芸です。さらにいえば俳句は、個性というものがしばしば幻想であることを気づかせてくれます。そして反個性という場所から、これまで気づかなかったような自己表現の世界が生まれてくるのです。

この「反個性」という理論あるいは概念をいわば物指しとして、五七五の定型の持つ魅力や、季語の擁する「歴史の記憶」から、句会における互選の意義まで、俳句の特性がつぎつぎと説き明かされてゆくのだが、「反個性」説ととりわけかかわりの大きいことで注目されるのが、俳句の型がしっかりと身につくまでは、「自分の思い」を、ことに「日頃からもっている感想、意見、信条、思想」といったものを述べようなどとしないでもらいたいという注文。なぜかといえば、「自分の思い」を述べたりすれば、「俳句のもっともおいしい部分を捨ててしまう」ことになるからだというのである。

俳句の面白さはむしろ、自分がそれまで考えたり感じたりしなかったことを、ふと目にした光景をきっかけに発見するところにあります。だいいち俳句のような短い形式では、なにか思いを述べようとしても、大したことはいえないのです。たんに「悲しい」といっても、悲しさの内実は表現されません。

もちろん、なかにはストレートに思いを述べて、名句の評の高い句がないわけではない。中村草田男一代の名吟、「降る雪や明治は遠くなりにけり」などがその好例だが、この句にしても、明治は遠くなってしまったという感慨を吐露しているから名句というのではなく、「降る雪や」という季語との取合せの妙が生んだ奇蹟というべきだろう。
仁平勝はこれはもう「理屈を超えた世界」だと嘆声をもらし、ただし、「こういう句を手本にして、季語のあとに自分の思いを述べれば、それで俳句になると考えてもらっては困るのです」と釘をさしている。察するに、初心者の句には「自分の思い」にこだわって句を駄目にしている例がそれだけ多いということであろうか。