(巻二十三)無惨なら枯向日葵に劣らざる(中原道夫)

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(巻二十三)無惨なら枯向日葵に劣らざる(中原道夫)

11月3日日曜日

ベランダへミカンの動く文化の日(潤)

ミカンの鉢植えを北側の廊下から南側のベランダに移した。
夏の陽は強すぎるがこれからの木漏れ日なら土を焦がす事もあるまい。
一つのだけ残った果実が黄色みをおびてきた。

キスをすることなく下りる密柑山(萩原慎一郎)

今、ミカンは6号のプランターに植わっているが、春には8号くらいの鉢に植え替えなければいけないそうだ。
ただ土を入れればいいというものではないらしい。
生協横の花屋さんが「持ってくれば、やったるよ。」と云ってくれているので結局はお願いかな?

ともかくもあなた任せのとしの暮(小林一茶)

ブックマーク

成人女性が朝日俳壇を持ってきてくれた。

今までと違ふ寂しさ秋の暮(杉山一川)

倒されて案山子は天を知りにけり(横田青天子)

を書き留めました。

この面に能村研三氏が「次世代へ俳句をつなぐ」を寄稿されていた。俳句界の高齢化と俳句協会会員の減少を嘆かれていらっしゃる。
俳句協会会員の数は減っているかも知れませんが、俳句は次世代へ受け継がれて行ってますよ。

甚平や一誌持たねば仰がれず(草間時彦)

という句界の体質を維持したい。その点から見れば将来は厳しい!

『当然でしょう。』

成人女性が年賀状を書き始めたようだ。“息子が就職したことを控え目に書きたい。知恵を出せ!”と云ってきた。「昨年春the地方都市に職を得て一人立ち致しました。」でどうかね?と提案しました。案は採用されましたが、そのあとに“さみしいです。”を付けるそうだ。

今までと違ふ寂しさ秋の暮(杉山一川)

お酒とっくり・おちょこ

カン酎ハイなんぞ啜りながら書見なんぞしていた午後十一時、しっかりとした雨音を聞く。

本

再読再載

「携帯から始まる新たな表現 - 森村誠一講談社刊 人生の究極 から
 
小説を書いていると運動不足に陥る。デスクに向かって逡巡していても、あるいは快調に筆が進んでいても、数時間、同じ姿勢を固定していることが多い。肩こり、書痙(しょけい)、腰痛などは作家の職業病である。
だが、激しい運動をすると、興奮が残ったり、眠くなったりして、その後の執筆に影響する。
運動不足を解消するために散歩をするようになった。なんの準備をする必要もなく、家の周辺を歩きまわる。晴れた日、雨の日、また季節や時間帯によって、A、B、C、三コースに分けて歩く。同じコースであっても、季節や時間帯や天候などによって風景が変わる。
だが、どんなに変わったところで、住居を中心とした生活圏内はたかが知れている。漫然と歩いていると、次第に飽きてくる。
そこで歩きながら俳句を詠むようになった。五・七・五、十七音の一行詩であるので、巧拙は別にして、だれでも気軽に詠める。読者から作家にこれほど簡単になれる文芸ジャンルはほかにはない。それだけに巧拙の差が大きい。
なにしろ十七音しか使えないので、俳句にはいろいろな約束事や、文法が多い。だが、初心者は文法は後まわしにして、見たまま、感じたままを十七音にまとめればよい。
例えば - 朝起きて顔を洗って散歩した -
これでも一応俳句になっている。
散歩中出会った風景や、人間、動・植物などに、これは俳句になりそうだという予感が走るようになってきた。その場で起句することもあれば、帰宅してから句作することもある。だが、予感が走っても、時間が経過する と、その句境、句材を忘れてしまうことがある。
そこでカメラを携帯して、句境、句材になりそうな場面や被写体を撮影するようになった。写真が保存する情報量は圧倒的に豊富である。先写後吟、あるいはその逆でもかまわない。
写真を見ながら句作することも多くなった。そのうちに、ただ起句するだけでは面白くなくなって、写真を添付して、ブログに掲載した。
そのとき、凡写・凡句であっても、両者をジョイントすると、凡句が生き生きと立ち上がり、凡写が精彩を放つことに気がついた。
写真俳句は以前にもあったが、おおむね古典俳句に現代の写真家が写真を添付するケースが多かった。私の場合は、同一人物が起句し、写真撮影するのであるから、俳句と写真の相性は抜群によい。これに エッセイをつけて本にまとめたところ、圧倒的多数の読者の支持を得た。
写真俳句の妙は、凡写・凡句が合体して、窯変(ようへんー予想もしないものに化ける一種の化学変化)するところに醍醐味がある。俳句や写真の約束事に縛られず、自由気ままに撮影して、これを合体すると、まったく新しい表現世界が展開するのである。
今日ではほとんどすべての人が携帯を所持している。つまり、カメラを自動的に携帯していることになる。大多数の人が写真俳句の潜在人口といえよう。
だが、創作者の常として、さらによい俳句を詠み、優れた写真を撮りたくなってくる。単なる五・七・五の韻を踏み、携帯で撮影するだけでは物足りなくなってくる。そのうちに上達して、ものの見方が深くなってくるのであ る。
前掲の「朝起きて顔を洗って散歩した」に止まらず、もっと踏み込みたくなってくる。十七音ではあっても、朝起きてから散歩したまでの報告にすぎない。写真も俳句の説明に終わっている。これに俳句の生命を吹き込むにはどうすればよいか。
まず、季語を入れてみよう。「朝起きて」は「霞立つ」、あるいは「霧立つや」に替えてみる。これだけで春、または秋の朝の風景がダイナミックに立ち上がってくる。
すると、顔を洗っただけではそれこそ作者の顔が見えない。これを「昨日を拒む今日があり」としてみよう。すると、毎日毎日、同じような繰り返しの朝が、俄然、今日は昨日とはちがった一日にしてみせるぞという作者の覚悟が示される。
これに霞立ち、あるいは朝霧の揺れる写真を添 付すれば、その霞と霧の奥にスタンバイしている今日という新しい一日に寄せる期待が弾んでいる。これぞ、まさに写真俳句の世界で、だれでも踏み込める、あらゆる可能性に満ちた未知の表現世界なのである。
準備はなにもいらない。携帯は我が身の一部のように常に“携帯”している。屋内でも写真俳句は可能であるが、句材と被写体が限られる。一歩外に踏み出せば、見慣れた風物であっても無限の表現世界が開く。高速度交通機関を結べば、写真俳句の進化と共に、人生が窯変していく。
まず、お勧めは自宅を拠点とした近所から、自転車に乗って徐々に行動範囲(写俳範囲)を拡大していくことである。