2/2「天狗 - 太宰治」道化の精神 から

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2/2「天狗 - 太宰治」道化の精神 から

芭蕉が続けて、
此筋は銀も見知らず不自由さよ
少し濁っている。ごまかしている。私はこの句を、農夫の愚痴の呟きと解している。普通は、この句を、「田舎の人たちは銀も見知らずさぞ不自由な暮しであろう」という工合いによその人が、田舎の人の暮しを傍観して述懐したもののように解しているようだが、それだったら、実に、つまらない句だ。「此筋」も、いやみたらしいし、「お金がないから不自由だろう」という感想は、あまりにも当然すぎた話で、ほとんど無意味に近い。「此筋」という言葉使いには、多少、方言が加味されているような気がする。お百姓の言葉だ。うるめの灰を打ちたたきながら「此筋は銀も見知らず不自由さよ」と、ちょっと自嘲を含めた愚痴をもらしてみたところではなかろうか。「此筋」というのは「此道筋と云わんが如し」と幸田博士も言って居られるようであるが、それならば、「此筋」は「おらのほう」というような地理的な言葉になるが、私には、それよりも「あらたち」あるいは「この程」「当節」というような漠然たる軽い言葉のように思われてならない。いずれにせよ、いい句ではない。主観客観の別が、あきらかでない。「雨がザアザアやかましく降っていたが私には気がつかなかった」というような馬鹿な文章に似ているところがある。はっきり客観の句だとすると、あまりにもあたりまえ過ぎて呆れるばかりだし、村人の呟きとすると、少し生彩も出て来るけれど、するとまた前句に附き過ぎる。このへん芭蕉も、凡兆にやられて、ちょっと厭気がさして来たのか、どうも気乗りがしないようだ。芭蕉連句に於いて、わがままをすることがしばしばある。まるで、投げてしまう事がある。浮かぬ気持になるのであろう。それを知らずに、ただもう面白がって下手な趣向をこらしているのは去来である。去来、それにつづけて、
ただどひやうしに長き脇指
見事なものだ。滅茶苦茶だ。去来は、しすましたり、と内心ひとり、ほくほくだろうが、他の人は驚いたろう。まさに奇想天外、暗闇から牛である。始末に困る。芭蕉も凡兆も、あとをつづけるのがもういやになったろう。それとも知らず、去来ひとりは得意である。草取りから一転して、長き脇指があらわれた。着想の妙、仰天するばかりだ。ぶちこわしである。破天荒である。この一句があらわれたばかりに、あと、ダメになった。つづけ様が無いのである。去来ひとりは意気天をつかんばかりの勢いである。これは、師の芭蕉の罪である。あいまいに、思わせぶりの句を作るので、それに続ける去来も、いきおいこんな事になってしまうのだ。芭蕉には少し意地悪いところもあるような気がして来る。去来を、いじめている。からかっているようにさえ見える。此筋は銀も見知らず不自由さよ。この句を渡されて、去来先生、大いにまごつき、けれども、うむと真面目にうなずき、ただどひやうしに長き脇指。その間の両者の心理、目に見えるような気がする。とにかく、この長脇指が出たので滅茶苦茶になった。凡兆は笑いを噛み殺しながら、
草むらに蛙こはがる夕まぐれ
と附けた。あきらかに駄句である。猿簑の凡兆の句には一つの駄句もない、すべて佳句である、と言っている人もあるが、そんなことは無い。やっぱり、駄句のほうが多い。佳句が、そんなに多かったら、芭蕉も凡兆の弟子になったであろう。芭蕉だって名句が十あるかどうか、あやしいものだ。俳句は、楽焼や墨流しに似ているところがあって、人意のままにならぬところがあるものだ。失敗作が四つあって、やっと一つの成功作が出来る。出来たら、それもいいほうで、一つも出来ぬほうが多いと思う。なにせ、十七文字なのだから。草むらに蛙こはがる夕まぐれ。下品ではないが安直すぎた。ほんのおつき合い。間に合せだ。
蕗[ふき]の芽とりに行燈[あんど]ゆりけす
芭蕉がそれに続けた。これも、ほんのおつき合い。長き脇指に、そっぽを向いて勝手に作っている。こうでもしなければ、作り様が無かったろう。とにかく、長き脇指には驚愕した。「行燈ゆりけす」という描写は流石である。長き脇指を静かに消してしまった。まず、どうにか長き脇指の始末がついて、ほっとした途端に、去来先生、またまた第三の巨弾を放った。曰く、
道心のおこりは花のつぼむ時
立派なものだ。もっともな句である。しかし、ちっとも面白くない。先日、或る中年のまじめな男が、私に自作の俳句を見せて、その中に「月清し、いたずら者の鏡かな」というのがあって、それには「法の心」という前書が附いていた。実に、どうにも名句である。私は一語の感想をもさしはさむ事が出来なかった。立派な句には、ただ、恐れ入るばかりである。凡兆も流石に不機嫌になった。冷酷な表情になって、
能登の七尾の冬は住憂き
て附けた。まったく去来を相手にせず、ぴしゃりと心の扉を閉ざしてしまった。多少怒っている。カチンと堅い句だ。石むろみたいな句である。旋律なく修辞のみ。
魚の骨しはぶるまでの老を見て
芭蕉がそれに続ける。いよいよ黒っぽくなった。一座の空気が陰鬱にさえなった。芭蕉も不機嫌、理屈っぽくさえなって来た。どうも気持がはずまない。あきらかに去来の「道心のおこりは」の罪である。去来も、つまらないことをしたものだ。
さてそれから、二十五句ほど続いて「夏の月の巻」は終るのだが、佳句は少い。
ちょうど約束の枚数に達したから、後の句に就いては書かないが、考えてみると、私もずいぶん思いあがった乱暴な事を書いたものである。芭蕉、凡兆、去来、すべて俳句の名人として歴史に残っている人たちではないか。それを夏の一夜の気まぐれに、何かと失礼に、からかったりしてその罪は軽くない。急におじけずいて、この一文に題して曰く、「天狗」。
夏の暑さに気がふれて、筆者は天狗になっているのだ。ゆるし給え。