「貧乏物語 一の三 - 河上肇」岩波文庫 貧乏物語 から

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西洋と日本とにては気候風土も同じからず、また西洋人と日本人とにては人種体質も異なる次第なれば、一概に定めがたけれども、前回に述べしようの方法にて、西洋にては男子の大人にて普通の労働に従事する者は、一日三千五百カロリーの熱量を有する食物を摂取せば可なりといいうこと、ほぼ学者間の定説である。よりてこれを大体の標準となし、女子ならばいかほど、子供ならばいかほどというように、性及び年齢に応じて、それぞれ必要な食物の分量を決めて行くものである。
ちなみにいう。先の大統領タフト氏を総裁とせる米国生命延長協会の校定に成れる『いかに生活すべきか』を見るに、一日一人の所要熱量をば約二千五百カロリーとしてある。すなわちこれに比ぶれば、前に述べたるローンツリー氏らの標準ははなはだ過大に失せるがごとく見ゆるも、かかる差異は、食物と労働との関係を計算に入るると否とによりて生ずるのである。現に『いかに生活すべきか』には「普通の座業者は一日約二千五百カロリーを要する、しかしからだが大きくなればなるほど、また肉体的労働に従事すればするほど、ますます多くの食物を要する」と断わってある。しかるに貧乏人は、いずれの国においても最も多くの肉体的労働に従事しつつあるものである。これ貧乏線測定の標準とすべき所要食料の分量が、普通人のために設けられたる標準とやや相違するところあるゆえんである。
*How to Live. 1916 p.30.
思うに所要熱量が労働の多少に大関係を有することは論をまたぬが、試みにその程度を示さんがために、私は左に一表を掲げる。これはフィンランドの大学教授ベケル及びハマライネンの二氏が、個々の労働者につきその実際に消費するところの熱量を測定したものである。

-表は省略します-

右の表によりて見る時は、われわれの所要熱量は労働中と休業中とによりて大差あり、また労働の種類によりて大差あることがきわめて明瞭である。しかして私がここに特に読者の注意を請わんとするは、労働中と休業中とにおける所要熱量の差異であるが、右の表によれば、木挽業者のごときは、その労働中の所要熱量は休業中のほとんど五倍ないし六倍に達するのである。さればこれら労働者の摂取すべき熱量を定むるに当たりては、常にその労働時間の多少を考慮に入るるの必要あるものにて、現に前表における木挽のごとき、一日八時間の労働ならば、その消費総熱量は五千カロリーなれども、もし労働時間を延長してかりに十二時間となさんか、約七千カロリーを要する計算となるのである。
労働時間の長短が所要熱量の多少に影響することかくのごとし。しかしてこの点より言えば、日本の労働者は西洋の労働者に比して、からだこそ小さけれ、はるかに多くの労働時間に服しつつあるがゆえに、その所要食料は西洋人に比しはなはだしき差異はなかるべきかと思う。
さて話がつい横道にそれたが、すでに一人前の生活に
必要な食物の分量が決まったならば、次にはそれだけの食物を得るにはいかほどの費用がいるかを見なければならぬ。詳しく言えば、所定の熱量を有する食物を得るのに、できうるだけじょうずに、すなわちなるべく安くてしかもなるべく滋養価の多いものを買うとすれば、一定の物価の下で、およそいかほどの費用がかかるかを調べるのである。そうすれば、一人の人間の生活に必要な食料の最低費用が計算できるはずである。
かくのごとくして、食費のほか、さらに被服費、住居費、燃料費及びその他の雑費を算出し、それをもって一人前の生活必要費の最低限となし、これを根拠として貧乏線という一の線を描く。しかしてこの線こそ、実際の調査に当たり、私が先にいうところの第三の意味における貧富の標準となるもので、すなわちわれわれは、この一線によって世間の人々を二類に分かち、かくてこの線以下に下がれる者、言い換うればこの生活必要費の最下限に達するまでの所得をさえ有しおらざる者は、これを目[もく]して貧乏人となし、これに反しこの線以上に位しそれ以上の所得を有している者は、これを貧乏人にあらざる者と見なすのである。