(巻二十四)仕事よりいのちおもへと春の山(飯田龍太)

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1月6日月曜日

 

息子がthe地方都市へ帰って行った。ただそれだけである。引きこもりの家庭内暴力もありかと覚悟していたのだから、無愛想くらいどうということはない。

龍太氏はどんな場面でこの句をつくったのでしょうか?
あたしゃ、死ぬほどの目には遭わず、というかかなりお気楽にここまでは渡世してきた。最終盤に“傍観者”として実社会の一面を観たが、多分あそこでは生き残れなかっただろうな!その点でも“運”があったわけだ。

棒グラフ張り替へ仕事始めかな(山本昌英)

龍太氏も旧家の旦那だから、世知辛い世の中にはあまり関わりのない“世捨人”ではなかったのか?同じような句を永井荷風尾崎一雄に詠まれても釈然とすまい。

「シグレを待つ人 - 安岡章太郎」文春文庫 父の酒 から

《一般に旧家の旦那 - 地主階級の人たち - は不労所得者の代表のように言われ、戦前の農民劇などでは小作人いじめの悪役とされることが多かった。しかし、戦前の日本の文化を底辺から支えてきたのは、じつは地方の農村に昔から根を張って村を治めてきた人たちではなかったか、と私は思っている。龍太さんが先祖伝来の土地に腰を据えて暮らしておられるのは、どういう事情によれものか私は知らない。けだし、精神の自立を計り、俳人として生きる上でも、これは最も大切なことなのであろう。ただ、井伏さんによれば、龍太さんが自宅の近くの渓流で釣りをしているときの後姿は、まるで案山子が立っているようで、見る間にあたりがシグレてきそうな風情がある、ということだ。 》

“世捨人”を一ヶ月と少々やっているが、悪くはない。こんな状況がいつまで続いてくれるのか。そんなうまい話が続くはずはないだろう。
何かと不安がつきまとう“世捨人”生活である。