(巻三十六)用のなき雪のただ降る余寒かな(井上井月)

(巻三十六)用のなき雪のただ降る余寒かな(井上井月)

 

4月16日日曜日

晴れ。朝家事は掃除機がけと洗濯。洗濯物は外干しにした。掃除機がけのときは台所に敷いているマットを通路側から出して叩く。ベランダ側で出して叩くと1階の専有庭に塵が落ちるし、万一手を滑らせてマットを落とした場合あとが面倒だ。下に人が居ないときに通路側で叩けば塵は自転車置場に落ち、万一手を滑らせてマットを落としたとしても回収が容易である。

昼前に生協へお米など買いに出かけた。途中で図書館に寄り4冊返却。予約した本が届いているが、ここは貸出期限が22日の太宰に集中だ。

往復でトイちゃんにスナックを振る舞う。鳴き声なトイちゃんが一番かな。

昼飯に竹輪の卵とじを作ってくれた。大変旨し。やよい軒で卵焼きで一杯やったとき、卵焼きにマヨネーズが添えてあり卵焼きにマヨネーズが合うことを知った。今日の竹輪の卵とじもマヨネーズでいただいたが、これにも合う。

葉桜や蕎麦屋でたのむ玉子焼(鈴木真砂女)

昼飯喰って、一息入れて、座椅子に寝転がってウトウトしていたら、しっかりとした雨音が聞こえてきて、雷も聞こえた。三時近くには収まったが午前中に少しは歩いたし、気が抜けて散歩には出かけず。写真は午前の買い物のときに一撮した緑が鮮やかな桜通り。

声掛けて体位交換花は葉に(岩永千恵子)

四時半に再び強雨となり、雷も鳴る。

英聴は、新着の

https://www.bbc.co.uk/programmes/m001kxgh

を試聴してみようと思っている。

願い事-涅槃寂滅、酔死か即死。

太宰の繋がりで、

「詩人 井伏鱒二 - ねじめ正一」読むところ敵なし から

を読み返してみた。

佃煮の暗さそれぞれ秋の風(小山玄黙)

 

「詩人 井伏鱒二 - ねじめ正一」読むところ敵なし から

 

最近になって、井伏鱒二の『厄除け詩集』を読んだ。井伏さんの小説は大好きで、「山椒魚」にしても「シグレ島叙景」にしても年に何度かは読まずにはいられないほどなのに、詩を読むのはこれがはじめてである。

井伏さんが若い頃から誌を書いておられたのは知っていたし、〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉という名文句ももちろん知っていた。じつは私は、井伏さんの詩を意識的に後回しにしてきたのである。私は詩に対して思い込みが強い。かなり強い。あれほどすばらしい小説を書く井伏さんの詩が、もしかひょっとしてつまらなかったらどうしようと思うと、読むのがこわかった。

しかも〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉がある。このフレーズがあまりにも有名で、あまりにもひとり歩きをしているせいで、ますますこわくなった。人が死ぬ瞬間につぶやくコトバとして、〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉はぴったりである。意味が込められている井伏さんの詩がみんな、このフレーズみたいな意味だらけのコトバでできてるとしたら困ってしまう。

そんなこんなで、こわいこわいと後回しにしているうちにどんどん月日がたってしまった。これではイケナイと本棚から『厄除け詩集』を引っぱり出したのは今年の一月、私自身の六年ぶりの詩集の原稿を編集者に渡した翌日である。結論から言うと、私の心配は杞憂だった。井伏さんの詩は小説とはぜんぜん違うものの、やっぱり井伏さんらしくコトバとちゃんと向き合っていた。その向き合い方がよかった。力むでなく、コトバの芸を見せるでもなく、むしろへろへろになろうとして詩に向かっているのだ。

 

つくだ煮の小魚

 

ある日、雨の晴れまに

竹の皮に包んだつくだ煮が

水たまりにこぼれ落ちた

つくだ煮の小魚達は

その一ぴき一ぴきを見てみれば

目を大きく見開いて

輪になって互にからみあってゐる

鰭も尻尾も折れてゐない

顎の呼吸するところには、色つやさへある

そして 水たまりの底に放たれたが

あめ色の小魚達は

互に生きて返らなんだ

 

本当に頼りない詩である。教科書に載せても、読んだ生徒たちは元気が出てこない詩である。この詩を読んだとき、私にはつくだ煮ではなくて煮干しの姿が浮かんできた。家が乾物屋をやっていたので、煮干しはお馴染みだったのだ。店頭に山積みになった煮干しは、よく見るとこの詩にあるようにはあっちを向いたり、こっちを向いたりしてからみあっている。目もちゃんとある。鰭も尻尾も折れていないのはもちろんで、折れている煮干しはよい煮干しではないのである。