「『阿弥陀堂だより』を書いたころ - 南木佳士」03年版ベスト・エッセイ集 から

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「『阿弥陀堂だより』を書いたころ - 南木佳士」03年版ベスト・エッセイ集 から

出版された自分の本を読み返すことはまずない。私の場合、小説を発表するのはほぼ「文學界」にかぎられている。その掲載までにゲラを二、三回直し、さらに本にする段階でおなじくらい読み、書き直す。さかのぼれば原稿も数度の推敲を経て編集者に送っているので、十回近くおなじ作品を最初から最後まで精読していることになる。
疲れ、飽きる。
だから、本になったものを手に取っても、ただその装丁の出来映えにいつめながら感心させられるばかりで、開いて読む気にまではとてもなれない。ちなみに、これまで十七冊出している私の本の装丁は対談集と岩波新書の二冊以外はすべて菊地信義さんにお願いしている。文庫になった七冊もおなじ。
言葉では伝えきれなかった作品全体の雰囲気をうまく表現してくれるセンスの良いデザインの表紙をながめていると、なんともありがたくなってくる。お礼を言わねばと思いつつ、出不精、人見知りの質[たち]が歳ごとに深まってきているゆえ、処女作品集『エチオピアからの手紙』の装丁を引き受けてもらってから二十年近く経つのに一度もお会いしていない。菊地さん、不義理をお許し下さい。
そんなわけで、『阿弥陀堂だより』も映画化が決まったのをきっかけに一、二度本棚から引っぱり出し、灰色と茶色の混じった背景に質素な阿弥陀堂が浮かび上がる上品な表紙をしみじみ見つめたのみで読んではいない。
作品が映画化されるにあたって原作者がどういう立場に立てばいいのかを教えてくれるマニュアルはないから、私はいまのマンネリの生活リズムを崩さないことのみ注意を払った。
脚本は見ない。記者会見には出ない。撮影には立ち会わない。試写会には行かない。
こんなわがままを通し続けることができたのはひとえにプロダクションの担当者や間に入ってくれた編集者のおかげと感謝している。映画関係者のみなさん、意固地な作家をお許し下さい。『阿弥陀堂だより』を書いた一九九四年から九五年にかけて私の体調は最悪だった。妻に付き添われて同僚の心療内科の外来を月に一回受診していた記憶だけがおぼろげに残っている。
生きて在り続けることの困難さに打ちのめされ、周囲の山を見あげれば首をくくるのに都合のよさそうな枝ぶりの木ばかりを探してしまう悲観の堂々めぐりに疲れ果て、とにかく自分が読みたいものだけを書こうと決めた。それは死なずにいるための唯一の手段だった。
いくらか体調もよくなり、山を歩いたりプールで泳げるようになったいまになってみればいかにも大仰な思い込みだったと知れるが、そのころは懸命だった。日帰り登山で下山するとき、急な登りであえいでいた余裕なき己の姿を鮮明に思い出すが、笑う気にはなれない。それに似た感情をあのころの自分に対して抱く。人生の山を登りきる直前の苦しさだったのかもしれない。
だから、いまは肩の力を抜いてゆっくり景色を見ながら下ってゆく心地よさを大切にしたい。それを支えるのはマンネリを好むからだの声に逆らわずに暮らすことなのだと五十歳になってようやく気づいた。旧黒澤組による映画化の話をもらったとき、光栄に思いながらも参加する気になれなかったのは以上のような理由による。
日々の医者としての診療と、休日の早朝から取りかかる原稿書きができるようになっただけでも儲けもので、これ以上を望んだらまた罰が当たりそうな気がする。

 

阿弥陀堂は生まれ育った群馬県吾妻郡嬬恋村大字三原の下屋と称される五軒あまりの集落の裏山にある。そのすぐ下の墓地には私が三歳のときに死んだ母や、以後十三歳の春までこの集落で私を育ててくれた祖母の墓がある。
弱りきった精神は退行を好む。あのころの私は底上げなしの、あるがままの存在を許されたふるさとの自然や人のなかに還りたかった。しかし、実際に還ったところで懐かしい人たちはみな死者であり、ともにながめる人を亡くした風景は色あせて見えるだけだろう?ならば言葉でふるさとを創り出すしかない。そんな想いで『阿弥陀堂だより』を書き始めた。
祖母は村の広報誌のことを「村だより」と呼んでいた。「阿弥陀堂」と「村だより」、小説の題名はこの二つをくっつけたのだ。祖母たち老人が先祖供養の念仏をもうしながら数珠を回していあた阿弥陀堂。その小さな庭からは向かいの崖と谷底の川と狭い集落が見渡せた。それが幼い私にとっての世界の景色のすべてだった。
もし生きのびられるのなら、もう一度この世界から歩き出したかった。切実に、誠実にその世界を創りあげだかった。
うつ病による罪業妄想と言ってしまえばそれまでだが、末期の癌患者さんたちを看取ることの多い生活をしてきた私は夜ごとに亡くなった人たちの顔を思い出し、彼、彼女たちの訴えの十分の一も理解できていなかったことを悔い、ひたすら詫びた。悪夢で深夜に目覚めるたびに「天罰」という言葉が天井から降ってきた。
書くことで供養ができるなら......そんな想いを先祖の霊を守る老婆に託した。
記憶に刻まれた人や風景を寄せ集め、仮想の村、集落を創り、それらを忠実に描写していったら一つのおとぎ話ができあがった。この物語を誰よりも読みたかったのは私自身なのだった。完成したとき、これが小説たりえているのかどうか判断できなかったからとにかく編集者に送り、大丈夫ですよ、の回答をもらって安堵のため息を何度もついた。
しかし、ある新聞に載った文芸時評では、その内容の甘さをこっぴどく批判された。そんなにひどいことを書くならなんでこれほど大きく時評に取り上げるんだよ、と涙ぐみつつ送られてきた新聞を庭の隅の焼却炉で燃やした。ものを書くことを仕事にしてから、他者が私の作品について評した文章を燃やすのは初めてだったが、いかにも後味の悪い体験だった。
都会の病院勤務で心を病んだ女医が小説家である夫のふるさとの村で癒されてゆく。たしかに安易と言われればそれまでのプロットだが、そのころの私には企んだ小説を書ける余力がなかった。細部をていねいに書き込むことしかできなかった。
阿弥陀堂だより』には私の存在の世話をしてくれた人たち、底上げされた私のいたらなさを口に出して責めぬまま静かに逝った人たち、そして、ただの存在にもどった私の目に映った自然の生なましさなどが詰め込まれている。甘く書くしかなかった酷薄な事実が隠されている。
書きあげ、本になった時点でこれらのものはすべて本のなかに大事に封印した。表紙の阿弥陀堂の戸はしっかり閉じている。そうすることでなんとか今日まで生きてこられた、少なくともいまのところはこの封印を解くつもりはない。他者の解釈を観たり聞いたりする勇気もない。
いつか、どこかの映画館の片隅で『阿弥陀堂だより』を観る機会があったら、私はこの懐かしいタイトルを観ただけで泣き出してしまうかもしれない。
そんなことを書きながら、流れに乗れば気軽に観終えてしまうのも私の根性なしのところで、実はもうそういうつっぱりはどうでもよくなっている。それにしても、試写会に行かない原作者なんて他にも誰かいたのだろうか、と気にしてしまう小心さだけはいかんともしがたい。