(巻三十)聴きなれしピアノの底の前世かな(田中信克)

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(巻三十)聴きなれしピアノの底の前世かな(田中信克)

8月21日土曜日

今朝は蝉の鳴き声が聞こえて来ない。細君が「夏期ゼミ休講」と珍しく駄洒落を飛ばした。

空蝉のそばなる蝉のむくろかな(高梨圭一)

しばらくしたら蝉の声が聞こえ始めた。

生協へ買い物に出かけた。やはりおかめ納豆は人気があるようで売り切れである(一撮)。やむを得ず「舌鼓」にしようと手に取ると賞味期限が24日だ。毎日食べれば間に合うがまだ冷蔵庫に2個ある。元に戻したらその奥に27日のがあったのでそれを買った。生協の4個パックは人気がない。ここで小生が納豆の蘊蓄を垂れても仕方がない。魯山人が語っている。

夕方の散歩。図書館へ行き、返却と4冊借りた。どうも読みたくならない本ばかり借りたようだ。無理して読むこともないから明日返そう。こういうときのために『時刻表2万キロ-宮脇俊三』の未読区間を残してある。コチコチした八百本の随筆を読み返そう。本日は四千二百歩で階段は3回でした。

願い事-叶えてください。今日借りた佐伯啓思氏の『死と生』の中に須原一秀氏の自死のことが書いてある。 私は自分で裁けない。

> 「お茶漬けの味 - 北大路魯山人」中公文庫 魯山人味道 から

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> お茶漬けの話にかぎらないが、料理というものは、財力豊かな人のものと、財力不自由な人のものとでは、常に天と地ほどの相違がある。しかし、財力豊かで、刺身よかれ、牛肉よかれと、どんな材料でも、手に入れることに少しも不自由のない人が、贅沢料理に飽きて、簡単な美味いもなので食事がしたいという場合がある。これは体内にお医者さまの言う栄養が充ち満ちて、生理上、栄養が不必要になった時だ。かような時、茶漬けで飯が食いたいということになる。

> だが、ただの茶漬けという分には差支えないが、贅沢なものの、特にもの好みして、なにか美味い茶漬けが食いたい意味で、茶漬けを要求する場合には、単にさけの切り身というわけにもいかないだろう。さけの切り身と言っても、いろいろあるので、ほんとうの新巻じゃけが手に入れば茶漬けも甚だ結構だ。しかし、近頃はそう特殊の新巻も手に入るまい。そこら辺の店先で手に入れるとなると、さけは美味いもの食いには承知ができず、「ほかになにか.....」ということになってくる。

> 沢庵の美味いのはないか、干ものの美味いのはないかと詮議だてをすることになる。あるいは、たい茶漬けにしようか、という具合に金のかかる方法も考えられる。そういう手は財力が豊かでなければ自由にならない。ゆえに料理は貧富の差で、さまざまの答えが出てくると言えよう。

> 昔から婦人雑誌やラジオなどに出てくる料理研究家と称する人々の発表する料理は、贅沢料理と言うよりも、大衆的であることを根本精神にしたものだから、贅沢者の参考にはなるまい。

> そこで、私の語ろうとしているのは、茶漬けにかぎらず、(反感を持たれるかも知れないが)贅沢料理の話である。通の通たる人のよろこぶ話だ。現今の青年子女は、「金ばかり高くてそんなもの」と言うであろう。

> そこでもうひとつ、料理は貧富の差のみではなく、年齢の差で好みが変ることも考えてもらいたい。従って、一家族全部が感心するような料理はなかなかなく、年齢を分けて嗜好を合わせなくては満足がいくまいと思う。いわんや、財力の乏しい人では、値段の高いふつう聞きなれない料理には賛成できないであろう。

> 美味い料理は長年続けての習慣がつかなければ、美味いと分るものではない。それが分るようになるためには、相当の費用もかかる。しかし、だからと言って、費用をかけたから食物の美味さが誰にも分るとはかぎらない。食通と言われる人でも、種々の段階があるくらいだから、一般ではなおさらである。結局、これは書画の場合と同じように、分る人のみに分るのであろう。

> さて、お茶漬けの話だが、これにしてもそれぞれ段階があって、ただ飯の上に塩と茶をかけて美味い場合もあるし、たい茶漬けが美味い場合もある。体の状態によって、時々の好みが変ってくる。たい茶漬けが今日美味かったからと言って、明日も明後日もつづけたらどうであろうか。要は、正直に自分の体と相談して、なにを要求しているかを知るべきである。うなぎがいいか、牛肉がいいか、あるいは沢庵の茶漬けか、その時々の状態によって、好むところのものを食しておれば、誠に自然で美味を感じる。が、これを自然にやらないで、「高いものは美味そうだ」「安いものは食いたくない」と言って選択しているのを見聞きするが、こんな考え方は、茶漬けであっても一考を要する。茶漬けを食べたいと要求する肉体が、自分の好きな茶漬けを食えたらこんな幸せはあるまい。これがすなわち栄養本位と言えよう。この理論は茶漬けにかぎらず、どんな場合にも成立する。

> なんにしても食物のことは、自分の肉体や精神をつくってくれる根本問題であるから、その根本義を考えて、美味いものを食べればよいのである。よくよく考えてみれば、人の食物に対する要求は、結局肉体がその食物を要求しているので起こると言える。

> ところで、その要求だが、ふだん値の高い食物で育ちつけた人は、そのほうが体に合うところから、美味い高価なものを要求する。たとえば、東京ではまぐろに高い金を出すが、食い道楽で有名な大阪の人たちは、まぐろに金を出さない。これは、昔から大阪にまぐろの一級品が運ばれないので、まぐろの味を知らないからである。

> また食いものが、美味いものだけ食えるか、不味いものしか食えないかというのは、その人の育った環境のせいでもあるから、これをいたずらに曲げてはならない。分相応でなければならぬ。もしそうでなければ、食いものの話はできない。口福は得られないということになってしまう。前置きはこのくらいにして、実際の話に移ろう。

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> 納豆茶漬け

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> 納豆の茶漬けは意想外に美味いものである。しかも、ほとんどの人の知らないところである。食通間といえども、これを知る人は意外と少ない。と言って、私の発明したものではないが、世上これを知らないのはふしぎである。

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> 納豆の拵え方

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> ここでいう納豆の拵[こしら]え方とは、ねり方のことである。このねり方がまずいと、納豆の味が出ない。納豆を器に出して、それになにも加えないで、そのまま、二本の箸でよくねりまぜる。そうすると、納豆の糸が多くなる。蓮から出る糸のようなものがふえて来て、かたくて練りにくくなって来る。こね糸を出せば出すほど納豆は美味くなるのであるから、不精をしないで、また手間を惜しまず、極力ねりかえすべきである。

> かたく練り上げたら、醤油を数滴落としてまた練るのである。また醤油数滴を落として練る。要するにほんの少しずつ醤油をかけては、ねることを繰り返し、糸のすがたがなくなってどろどろになった納豆に、辛子を入れてよく攪拌する。この時、好みによって薬味(ねぎのみじん切り)を少量混和すると、一段と味が強くなって美味い。茶漬けであってもなくても、納豆はこうして食べるべきものである。

> 最初から醤油を入れてねるようなやり方は、下手なやり方である。納豆食いで通がる人は、醤油の代りに生塩を用いる。納豆に塩を用いるのは、さっぱりして確かに好ましいものである。しかし、一般にはふつうの醤油を入れる方が無難なものが出来上がるであろう。

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> お茶漬けのやり方

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> そこで以上のように出来上がったものを、まぐろの茶漬けなどと同様に、茶碗に飯を少量盛った上へ、適当にのせる。納豆の場合は、とりわけ熱飯がよい。煎茶をかけ、納豆に混和した醤油で塩加減が足りなければ、飯の上に醤油を数滴たらすのもいい。最初から納豆の茶漬けのためにねる時は、はじめから醤油を余計まぜた方がいい。元来、いい味わいを持つ納豆に対して、科学調味料を加えたりするのは好ましいやり方ではない。そうして飯の中に入れる納豆の量は、飯の四分の一程度がもっとも美味しい。納豆は少なきに過ぎては味がわるく、多きに過ぎては口の中でうるさく食べにくい。

> これはたやすいやり方で、簡単にできるものである。早速、秋の好ましいたべものとして、口福を満たさるべきではなかろうか。

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> 納豆のよしあし

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> 納豆には美味いものと不味いものとある。不味いのは、ねっても糸をひかないでざくざくとしている。それは納豆として充分に発酵していない未熟な品である。糸をひかずに豆がざくざくぼくぼくしている。充分にかもされている納豆は、豆の質がこまかく、豆がねちねちしていないものは、手をいかに下すとも救い難いものである。だから、糸をひかない納豆は食べられない。一番美味いのは、仙台、水戸などの小粒の納である。神田で有名な大粒の納豆も美味い。しかし、昔のように美味くなくなったのは遺憾である。豆が多くて、素人目にはよい納豆にはなっているが。

> (昭和七年)