2/2「なんとかなる(仮題) - 勢古浩爾」宝島社刊『60歳からの新・幸福論』から抜書

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2/2「なんとかなる(仮題) - 勢古浩爾」宝島社刊『60歳からの新・幸福論』から抜書

ないものはしょうがない

定年を迎える人の大半が抱える不安は、お金の問題だろう。もし少なければ、働くしかない。単純な話である。私は年金を60歳からもらっている。通常より5年早くもらっていることになる。年金には繰り上げ支給という制度があるが60歳からもらうと、65歳からもらう満額の70パーセントしかもらえない。「76歳8カ月以上長生きすると、65歳からもらったほうが得になる」-。私はそれを承知のうえで迷うことなく60歳からもらった。
というのも「70歳まで生きられないかもしれない」とか、「生きているうちにもらわないと意味がない」」と思っていたからだ。もうひとつの理由は、文筆業という職業柄、会社員時代と違って収入が見通せなかったからである。つまり、65歳からなんて悠長なことは言っていられなかったのだ。
私は株式投資をやったことがない。また、「老後資金をつくるうえで、最も優れた制度」といわれている「イデコ」(個人型確定拠出年金)などとも無縁だ。そういう制度があり、これらが好きな人がいて、そういう人が最終的に大笑いをするかもしれない。ただ、当然その逆もある。そもそも、貯蓄もないし、退職金も34年間勤めて900万円弱の私に、そんな余裕はなかったのだ。
現在の収入は年金と印税(原稿料)だけである。年金は夫婦合わせて月に21万5000円。出版不況で初版部数はかつてほど多くはなく、印税収入は以前の半分以下だ。均[なら]すと、コンビニの店員さんにも劣るのではないか。それでも、文章を書くことは私にとって救いになっている。別に金の問題だけではない。これはハッキリしているので、この仕事があることは恵まれていると思っている。

 

性に合わないことは無理してやらない

定年後の問題のひとつに「孤独」を挙げる人がいる。そうならないようにするため、地域社会に溶けこむこと=「地域デビューを」と忠告する人もいる。私は「そんなことをする必要はない」とも「したほうがいいよ」とも言わない。孤独に耐えられない人は、交友を求めればいいし、そうでない人はゆったりしていればいい。
世間には孤独が平気な人とそうではない人間がいる。私は「一人」がまったく苦にならない体質らしく、平気な人間である。むしろ、中途半端な集会より、一人でいることのほうが好きだ。だから、退職してすぐ町中を自転車で走り回り、公園を見つけた。そこは誰もいない静かな環境だったので、そこで過ごす時間は「極上」とも言えた。夏は陽を浴びて過ごし、一夏で真っ黒になった。
この公園を“行きつけ”にしていたのが、昨年は湖畔を臨む公園を見つけた。緑の木々と草が広がり、その先に広く穏やかな湖面が見えて空間が開けていて眺望がいいのである。四つ並んでいるベンチの上には屋根がある。これがここに通うようになった理由のひとつだ。さすがに定年後7~8年も経つと、夏の直射日光に耐える気力も体力も衰えてきたからである。ただ、近所のオジサン連中が来るので長居はしない。
私の住んでいる地域にも老人サークルがある。パソコン講習やダンス、英会話などといろいろな集まりがある。そこに一度、呼ばれたことがある。しかし、みんなで何かをやる、ということが性に合わない。もちろん、それが好きで、出会いを求めて行く人は構わない。ただ、行きたくない人は行く必要はない。無理して出かけて嫌な人間関係に陥るより、「一人」のほうがよっぽどましである。「定年後は地域にデビューしろ」など、私には「やかましい!」限りである。
ボランティアも同じだ。定年後にボランティアをやりたいという人はいるし、実際にやっている人も多いはずだ。識者のなかにもこれをすすめる人が少なくないが、これも好き好きだ。世間が「定年後はボランティア」と言っているからと、性に合わないことは無理にやる必要はない。
そもそも、ボランティアをやっている人は自発的にやっているのである。“スーパーボランティア”として一躍時の人になった尾畠春夫氏のように、やっている人は黙々とやっている。わたしは尾畠氏のような人は尊敬するが、引け目を感ずることはない。私のように、やらない人間はやらないでいい。自分がしないことを、他人様[ひとさま]に「やりましょう」とは言えない。

 

定年前にやっておいてよかった唯一のこと

定年を迎えたら、それまでなかなかできなかった夫婦旅行に出かける人もいるだろう。キャンピングカーで日本一周だとか、国内・国外のクルーズ旅行だとか、豪華列車の旅とか、が人気らしいが、まあ私とは無縁だった。お好きな人はどうぞ、と思うだけで、うらやましくはない。
旅行といえば、私は春と冬の年に2回、国内旅行に出かける。3泊4日程度の日程で好きな奈良、ほかには金沢や姫路あたりに出かける。基本は電車で3時間程度で行ける場所だ。退職直後はフランスやスペインに行きたいと思っていたが、金がないのと、もう飛行機に乗るのが面倒くさいのとで、その気はなくなった。
その点、国内旅行は気楽だ。名所旧跡を一日に1~2ヵ所、ふらっと訪ね歩くだけだが、その実、やっていることは地元にいるときとあまり変わらない。地の物を食べるわけでもなく、地酒を味わうわけでもない。ここでも私は「一人」だから、何をしてもいいし、何をしなくてもいい。ただ普段とは違う場所にいて、「家に帰らなくていい」という解放感に浸れる。
私は定年に備えて何ひとつやらなかったと言っていい。しかし、そのための準備というわけでもなかったのだが、一つだけ「よかった」と思えることがある。定年前に住宅ローンを完済することができたことだ。
銀行、住宅金融公庫、厚生年金からの借り入れで、35歳の時に2000万円もしない最低価格の家を買った。銀行ローンは30年だったから、完済予定は65歳である。正直に言えば大して気にもとめていなかった。「なんとかなるだろう」という軽い気持ちだったが、途中、2回ほど繰り上げ返済をし、結果的に58歳頃に完済した。当時の安月給で、よくも完済できたものである。金利は8パーセントだった。
生活費のなかに占める住居費の割合は高い。定年後の経済的負担を減らすために、60歳過ぎまでローンがあるなら、なんとか繰り上げ返済しておくだけは重要かもしれない。一方で賃貸派もいる。私は一ヵ所に釘付けにされる戸建てよりも、移動できる自由がある賃貸が実はよかった。しかし独り身でなかったから、自分の意思だけを押し通すわけにはいかなかった。結果的に持ち家でよかったとは思うが、持ち家、賃貸のどちらを選ぶかは、「一人ひとりの判断」としか言いようがない。

 

定年後の準備などできるわけがない

最近は、「定年準備の前倒し」をすすめる本が多数、出てきている。なかには「30歳代から始めよ!」という無茶な人もいる。また、老後資金のために「分散して投資しろ」などとも言うが、「面倒臭いことを言うな」と言いたい。大体、家賃を払い、子どもの学資を貯めていて、どこにそんな余裕があるのか。
早めに定年の準備をしておきなさい、というのは言葉のうえではもっともである。だが、今を生きるのに精一杯で、給料がカツカツなのに、定年後のことを考えて準備することができるのか。少なくとも、私の場合はそうだった。だから、そんな非現実的なことを「アタマで考えて言ってもダメだ」ということである。実際、30歳代のほとんどの人は定年準備などできるはずがない。30歳代から定年後の準備をすることは、「悩みの前倒し」をするようなものである。
現在の40~50歳ぐらいの人でも事情は同じではないだろうか。仕事があり、会社の業績は芳しくない。家や車のローンのほかに保険などの固定費があり、小遣いは月2万~3万円。これで、どんな準備をしろというのだろうか。
だから、定年準備など、進めたくてもできない人は慌てて準備しなくてもいいのである。大体、準備のしょうがない。できるやつは、わざわざ準備などしなくても、勝手に準備できているのである。そんなやつのことは放っておいて、まあなんとかなるだろ、と楽観的に考えておいたほうがいい。
一人ひとりの事情が違うように、定年後に、すべての人に共通する話はない。できることは決まっているし、定年後をどう生きていくかは個々人が考えるしかない。「~をする」も「~しない」も、その人の自由なのである。自分が好きでやっていることなら、世間体など構うことはない。お酒を飲みながら阪神戦のナイターをテレビで観る-。それで本人がよければ、それでいいのである。ほんとうに人は一人ひとり違う。状況も性格も趣味も違うのである。
なんともならないのが現実である。それをなんとかしようとするから無理が出るのだ。あるいは、自分だけ得をしようと考えるから、失敗するのである。定年後はなるようにしかならない。人生と同じである。人間は意志し、行動する。だが、それでもなるものはなり、ならぬものはならない。