(巻三十)花を見る目配りにさへお人柄(高澤良一)

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(巻三十)花を見る目配りにさへお人柄(高澤良一)

 

8月22日日曜日

 

蝉が元気だ。

蝉啼くや声の大きい方が勝ち

と捻ったら、細君に判りやすいと褒められた。俳壇に出せと云うが、実名ではだめとのことだ。

今月に入ってから、

蝉啼くや声の大きい方が勝ち

秋立ちて掟破りの路酎かな

世間との程よい間合い夕端居

葛飾の影絵の町や夕涼み

湯冷ましのなかなか冷めぬ酷暑かな

蜘蛛の子を逃がす爺の下心

風の道断たれて目覚む三尺寝

と捻っている。

そう言えば、難しくて理解は出来ないが太宰治の俳句論をコチコチしてあった。

追憶のぜひもなきわれ春の鳥(太宰治)

細君がゴミ集積場と郵便受けの解錠施錠の練習をしたいと云うので、ご案内した。色々と想定をしているのだろう。それでよい。

夕方の散歩。図書館のポストに返却し、そこから、曳舟川を渡り、巨大パチンコ屋の景品交換所の前を通り、上千葉交通公園へと散歩した。景品交換所の前には三、四人が列を作っていた。勝つ人もいるのだろう。

本日は三千七百歩で階段は1回でした。

願い事-叶えてください。今のうちにす~ッと消して頂きたい。

 

> 1/2「天狗 - 太宰治」道化の精神 から

>

> 暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑の中にある「夏の月」である。

> 市中は物のにほひや夏の月 凡兆

> いい句である。感覚の表現が正確である。私は漁師まちを思い出す。人によっては、神田神保町あたりを思い浮べたり、あるいは八丁堀の夜店などを思い出したり、それは、さまざまであろうが、何を思い浮べたってよい。自分の過去の或る夏の一夜が、ありありとよみがえって来るから不思議である。

> 猿簑は、凡兆のひとり舞台だなんていう人さえあるくらいだが、まさか、それほどでもあるまいけれど、猿簑に老いては凡兆の佳句が二つ三つ在るという事だけは、たしかなようである。「市中は物のにおいや夏の月」これくらいの佳句を一生のうちに三つも作ったら、それだけで、その人は俳諧の名人として、歴史に残るかも知れない。佳句というものは少い。試みに夏の月の巻をしらべてみても、へんな句が、ずいぶん多い。

> 市中は物のにおひや夏の月

> 芭蕉がそれにつづけて

> あつしあつしと門々の声

> これが既に、へんである。所謂、つき過ぎている。前句の説明に堕していて、くどい。蛇足的な説明である。たとえば、こんなものだ。

> 古池や蛙とびこむ水の音

> 音の聞えてなほ静かなり

> これ程ひどくないけれども、とにかく蛇足的註釈に過ぎないという点では同罪である。御師匠も、まずい附けかたをしたものだ。つき過ぎてもいかん、ただ面影にして附くべし、なんていつも弟子たちに教えている癖に御師匠自身も時には、こんな大失敗をやらかす。附きも附いたたり、べた附きだ。凡兆の名句に、師匠が歴然と敗北している。手も足も出ないという情況だ。あつしあつしと門々の声。前句で既に、わかり切っている事だ。芸の無い事、おびただしい。それにつづけて、

>

>

> 二番草取りも果さず穂に出て

> 去来だ。失笑を禁じ得ない。さぞや苦労して作り出した句であろう。去来は真面目な人である。しゃれた人ではない。けれども、野暮や人は、とかく、しゃれた事をしてみたがるものである。器用、奇智にあこがれるのである。野暮な人は野暮のままの句を作るべきだ。その時には、器用、奇智などの輩[やから]のとても及ばぬ立派な句が出来るものだ。

> 湖の水まさりけり五月雨

> 去来の傑作である。このように真面目に、おっとりと作ると実にいいのだが、器用ぶったりなんかして妙に工夫なんかすると、目もあてられぬ。さんたんたるものである。去来は、その悲惨に気がつかず、かえってしたり顔などしているのだから、いよいよ手がつけられなくなる。ただ、ただ、可愛いというより他は無い。芭蕉も、あきらめて、去来を一ばん愛した。二番草取りも果さず穂に出て。面白くない句だ、なんという事もない。二番草、ここが苦労したところだ。どうです。ちょっとした趣向でしょう?取りも果さず、この言い廻しには苦労しました。微妙なところですからね。でも、まあ、これで、どうやら、ナンテ。ただ、ただ、苦労の他は無い。何度も読んでいるうちに、なんだか、恥ずかしくなって来る。去来さん、どうかその「趣向」だけは、やめて下さい。

> 灰打たたくうるめ一枚

> 凡兆が、それに続ける。わるくない、農夫の姿が眼前に浮ぶ。けれども、少し気取りすぎて、きざなところがある。ハイカラすぎる。

>

>

> 2/2「天狗 - 太宰治」道化の精神 から

>

> 芭蕉が続けて、

> 此筋は銀も見知らず不自由さよ

> 少し濁っている。ごまかしている。私はこの句を、農夫の愚痴の呟きと解している。普通は、この句を、「田舎の人たちは銀も見知らずさぞ不自由な暮しであろう」という工合いによその人が、田舎の人の暮しを傍観して述懐したもののように解しているようだが、それだったら、実に、つまらない句だ。「此筋」も、いやみたらしいし、「お金がないから不自由だろう」という感想は、あまりにも当然すぎた話で、ほとんど無意味に近い。「此筋」という言葉使いには、多少、方言が加味されているような気がする。お百姓の言葉だ。うるめの灰を打ちたたきながら「此筋は銀も見知らず不自由さよ」と、ちょっと自嘲を含めた愚痴をもらしてみたところではなかろうか。「此筋」というのは「此道筋と云わんが如し」と幸田博士も言って居られるようであるが、それならば、「此筋」は「おらのほう」というような地理的な言葉になるが、私には、それよりも「あらたち」あるいは「この程」「当節」というような漠然たる軽い言葉のように思われてならない。いずれにせよ、いい句ではない。主観客観の別が、あきらかでない。「雨がザアザアやかましく降っていたが私には気がつかなかった」というような馬鹿な文章に似ているところがある。はっきり客観の句だとすると、あまりにもあたりまえ過ぎて呆れるばかりだし、村人の呟きとすると、少し生彩も出て来るけれど、するとまた前句に附き過ぎる。このへん芭蕉も、凡兆にやられて、ちょっと厭気がさして来たのか、どうも気乗りがしないようだ。芭蕉連句に於いて、わがままをすることがしばしばある。まるで、投げてしまう事がある。浮かぬ気持になるのであろう。それを知らずに、ただもう面白がって下手な趣向をこらしているのは去来である。去来、それにつづけて、

>

> ただどひやうしに長き脇指

> 見事なものだ。滅茶苦茶だ。去来は、しすましたり、と内心ひとり、ほくほくだろうが、他の人は驚いたろう。まさに奇想天外、暗闇から牛である。始末に困る。芭蕉も凡兆も、あとをつづけるのがもういやになったろう。それとも知らず、去来ひとりは得意である。草取りから一転して、長き脇指があらわれた。着想の妙、仰天するばかりだ。ぶちこわしである。破天荒である。この一句があらわれたばかりに、あと、ダメになった。つづけ様が無いのである。去来ひとりは意気天をつかんばかりの勢いである。これは、師の芭蕉の罪である。あいまいに、思わせぶりの句を作るので、それに続ける去来も、いきおいこんな事になってしまうのだ。芭蕉には少し意地悪いところもあるような気がして来る。去来を、いじめている。からかっているようにさえ見える。此筋は銀も見知らず不自由さよ。この句を渡されて、去来先生、大いにまごつき、けれども、うむと真面目にうなずき、ただどひやうしに長き脇指。その間の両者の心理、目に見えるような気がする。とにかく、この長脇指が出たので滅茶苦茶になった。凡兆は笑いを噛み殺しながら、

> 草むらに蛙こはがる夕まぐれ

> と附けた。あきらかに駄句である。猿簑の凡兆の句には一つの駄句もない、すべて佳句である、と言っている人もあるが、そんなことは無い。やっぱり、駄句のほうが多い。佳句が、そんなに多かったら、芭蕉も凡兆の弟子になったであろう。芭蕉だって名句が十あるかどうか、あやしいものだ。俳句は、楽焼や墨流しに似ているところがあって、人意のままにならぬところがあるものだ。失敗作が四つあって、やっと一つの成功作が出来る。出来たら、それもいいほうで、一つも出来ぬほうが多いと思う。なにせ、十七文字なのだから。草むらに蛙こはがる夕まぐれ。下品ではないが安直すぎた。ほんのおつき合い。間に合せだ。

> 蕗[ふき]の芽とりに行燈[あんど]ゆりけす

> 芭蕉がそれに続けた。これも、ほんのおつき合い。長き脇指に、そっぽを向いて勝手に作っている。こうでもしなければ、作り様が無かったろう。とにかく、長き脇指には驚愕した。「行燈ゆりけす」という描写は流石である。長き脇指を静かに消してしまった。まず、どうにか長き脇指の始末がついて、ほっとした途端に、去来先生、またまた第三の巨弾を放った。曰く、

> 道心のおこりは花のつぼむ時

> 立派なものだ。もっともな句である。しかし、ちっとも面白くない。先日、或る中年のまじめな男が、私に自作の俳句を見せて、その中に「月清し、いたずら者の鏡かな」というのがあって、それには「法の心」という前書が附いていた。実に、どうにも名句である。私は一語の感想をもさしはさむ事が出来なかった。立派な句には、ただ、恐れ入るばかりである。凡兆も流石に不機嫌になった。冷酷な表情になって、

> 能登の七尾の冬は住憂き

> て附けた。まったく去来を相手にせず、ぴしゃりと心の扉を閉ざしてしまった。多少怒っている。カチンと堅い句だ。石むろみたいな句である。旋律なく修辞のみ。

> 魚の骨しはぶるまでの老を見て

> 芭蕉がそれに続ける。いよいよ黒っぽくなった。一座の空気が陰鬱にさえなった。芭蕉も不機嫌、理屈っぽくさえなって来た。どうも気持がはずまない。あきらかに去来の「道心のおこりは」の罪である。去来も、つまらないことをしたものだ。

> さてそれから、二十五句ほど続いて「夏の月の巻」は終るのだが、佳句は少い。

> ちょうど約束の枚数に達したから、後の句に就いては書かないが、考えてみると、私もずいぶん思いあがった乱暴な事を書いたものである。芭蕉、凡兆、去来、すべて俳句の名人として歴史に残っている人たちではないか。それを夏の一夜の気まぐれに、何かと失礼に、からかったりしてその罪は軽くない。急におじけずいて、この一文に題して曰く、「天狗」。

> 夏の暑さに気がふれて、筆者は天狗になっているのだ。ゆるし給え。

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