「死を想う、死を語る - 玉村豊男」文春文庫 雑文王玉村豊男 から

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「死を想う、死を語る - 玉村豊男」文春文庫 雑文王玉村豊男 から

子供の頃、私にひとつの強迫観念があった。
それは、もしも眠っているうちに死んでしまったら、明日からはいったいどうなるのだろう、という不安である。
いったん閉じた眼が再び開くことがない。そう考えると、いても立ってもいられなかった。明日から、すべてが喪われてしまうのだ。
ほかにもたとえば、紙に鉛筆で字を書いているうちに、その鉛筆を急に強く紙に押しつけたくなり、無理やりに押して紙を
破り鉛筆の芯を折ってしまう、といった典型的な強迫神経症の症状が私にはあったのだが、この死への恐怖も同じようなかたちをとり、ふとその思いにとらわれるとそこへ自分をますます追い込んでいき、今晩死んでしまえば明日からは親にも会えない、友だちにも会えない、遊ぶこともできない......と次々に具体的なイメージを紡ぎ出して、最後にはいつも泣き出してしまうのだった。
そういう時期が、一年くらいは続いたように思う。小学校の高学年の頃である。たしかそんなことを仲の良い友だちと話し合った記憶があるから、この年齢の子供というのは案外みんな同じようなことを考えているのかもしれない。
いまそれを思い出しながら、同じようにイメージしようとしているのだが、どうもあまり現実味が迫ってこない。それほどの恐怖感もない。死への距離からいえば確実に三十年ほどはいまのほうが近いのに、明日からすべてを喪うことがどうして切実でないのだろう。
七年前に、交通事故に遭った。
高速道路を走行中にクルマが中央分離帯に乗り上げて一回転をするというかなりのアクシデントで、眼前で風景が逆回転していく瞬間には死を覚悟したが、耳がちぎれそうになったくらいのケガで済んだ。手術などで三カ月近く入・退院の日々を送ったが、終ってみればどうということもない。
三年前には大量の吐血をして救急車で運ばれ、極度の貧血でかなり危ないところまでいったが輸血で助かった。しかしその輸血で肝炎ウイルスに感染し、病状がおさまるまで丸二年以上かかった。
肝炎は、一度かかると将来肝硬変・肝ガンになる率が高いといわれる病気である。慢性のまま治らない人も少なくない。二年以上、緩慢な死を宣告された思いで過ごした。いまはいちおう回復したが、そう長生きはできないかもしれないな、と思っている。
肝炎の病状が激しかったときは、ずっと信州・軽井沢の自宅で寝ていた。
たまにそろそろと起きて東京の病院へ診察してもらいに出かけるほかは、寝室の窓から雑木林の風景を眺めて静かに暮らしていた。田舎に引越してから約三年後のことだったが、そんなふうにゆっくりと自然を眺めながら毎日を過ごしたのははじめてだった。
夏のあいだは濃い緑に覆い尽くされる雑木林も、短い秋が終るといっせいに葉を落とす。あたりが枯色の世界に変わる。
緑は生命の色で、褐色は死の色である。葉は落ちて朽ち、崩れて、すべてが暗褐色の土となる。そしてその土から、春になると、また新しい命が生まれ出る......。
悟りを開く年齢にはまだ早過ぎたが、それでも雑木林のありさまをつぶさに眺めていると、なるほど生と死とはひとつながりになってめぐっているものだな、ていう感懐を抱いたりもした。
私は病気の回復期に、高校のとき以来描いたことのなかった油絵を二十五年ぶりにはじめたのだが、緑の林などにはいっこうに興味が向かず、腐った果実や、乾いてひからびた花や、花弁の落ちたヒマワリなどをおもなモチーフにした。それも濃い地塗りの暗い絵ばかりである。明るい花の絵などを描けるようになったのは、軽い運動ができるほど元気になってからのことである。
そんなふうにして、なにかがあると刺激されて死を多少身近に考えるが、しばらくするとまた忘れ、毎日を安穏に暮らして四十三年が過ぎた。
もちろん、死ぬことは怖い。死にたくはない。まだまだやりたいことはいっぱいある。夭折するほどの天才ではないし、だいいち夭折という言葉がふさわしい年齢はとうに過ぎている。
喪うべきものがふえればふえるほど、喪うことへのおそれはつのるものだが、ただし死に関しては、毎日の生活が興趣あるものであるかぎり、逆にそれを喪う瞬間のことは忘れていられるのかもしれない。
私の父親は(私が六歳のとき)五十七歳で死んだ。胃ガンである。顔も体型も私とよく似ている。
その年齢にもうすこし近づけば、あの小さな子供のときと同じように、死は現実味を帯びた恐怖として再び迫ってくるのだろうか。