「人間萬事[抜書] - 山口瞳」日本の名随筆別巻22名言から

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「人間萬事[抜書] - 山口瞳」日本の名随筆別巻22名言から

むかし、小学校の六年生のとき、家で書初めをやらされた。戦前の家庭では、カルタを取ったり、句会を開いたりして、家族だけで遊ぶということが行われた。その他に、いろいろな室内遊戯があった。なかには、父が花柳界で仕込んできた、子供にはちょっとどうかと思われる遊びもあった。書初めは儀式であり遊びでもあった。
「人間萬事」と私は書いた。それに「金之世之中」と続けた。
どこでその言葉を知ったのかということを憶えていない。家にあった明治大正文学全集をめくっていて見つけたのかもしれない。深く考えることをしないで、ふらふらした気持で書いてしまった。私としては諧謔のつもりだった。当時から、私は、父も母も、ユーモアのセンスはなかなかのものだと思っていた。
私の書いたものを見て、母は、まあ、と言った。厭な子だわねえ.....。母の声音には憎々しいところがあった。私は驚いて父のほうを見た。意外にも、父の顔にも怒気があふれていて赤い顔になっていた。困ったことになった。私は散々に叱られた。殴られるようなことはなかったけれど、いまにも殴られるのではないかと思い、覚悟をきめていなければなかなかった。思いもかけないことになった。ひとつには、楽しかるべき書初めの会が私一人のために台無しになってしまったからだろう。
「人間萬事金之世之中」と書いたのは諧謔のつもりだったけれど、何割方かは本当のことだと思っていた。いや、そうではない。私は、それはそっくり真実だと思っていた。真実だから滑稽なのだと解釈していた。怒られる理由がわからない。いまでも、わからない。その、わからないということが、私の、変っているところだろう。
私は、父と母から「ゲジゲジ」と言われ「冷血動物」と言われた。だから、同胞もそう言った。出入りの芸人たちもそう言った。
ただし、芸人たちが、あんたゲジゲジねえと言うときは、いくぶんかはお世辞と感嘆が含まれていた。それは私と麻雀を打って勝てないからだった。私は、小学校の五年生のときから、家に来る大人たちと、千点二円(当時としてはかなりの額になる)の麻雀を打っていた。私の麻雀は、徹底してセコイ麻雀だった。私は、いまにいたるまで、四暗刻のように自然に出来てしまうものは別にして役満貫を和了した記憶がない。速度だけを重んじていた。いつでも、欲を出すと負けると信じていた。父の麻雀は、文字通り、下手の横好きだった。私は、芸人たちが、お世辞を言い言い、家から金を持ってゆくことに我慢ができなかった。それで、自然に、こすからい麻雀になった。また、私のゲジゲジぶりは、麻雀だけのことではなかった。

私は、一度の箱根旅行と、甲子園の中等野球大会見物以外に家族と一緒に旅行したことはない。いつでも家にいた。いつでも、いま、それどころではないと思い、金がモッタイナイと思っていた。だから、みんなで料理屋へ行くときも、活動写真や寄席へ行くときも、私だけ不機嫌で、よく父母に叱られた。寄席は十番倶楽部が近かったが、私は絶対に笑わない子供であって、そのことが楽屋の話題になったことがあるそうだ。湘南の避暑地へ行っても、私は憂鬱な顔をしていたし、実際に、海水浴や登山なんかは危険で鬱陶しいだけのものだった。
私は弁当のお菜[かず]に文句を言わない子供だった。その点では行儀のいい子供だった。他の四人の同胞は母に注文をつけたり、マズイと言ったり、好き嫌いを主張したりした。私には、それが贅沢であり我儘であるとしか思えなかった。それよりも、そのことが理解できなかった。喰いものなんか、なんだっていいと思っていた。
もちろん、衣類にも文句を言わない。文句を言わないばかりでなく、叮嚀に大事に扱った。兄や弟が一年で駄目にしてしまう洋服を、私は二年でも三年でも、寸法があわなくなるまで着ることができた。何につけても、私は、親にネダルということをしなかった。そういうあたりもゲジゲジであり、可愛い気がなかった。