「斎藤茂吉(にじみ出てくる可笑しみ) - 高島俊男」文春新書座右の名文から

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斎藤茂吉(にじみ出てくる可笑しみ) - 高島俊男」文春新書座右の名文から

もし、日本の文学者のなかでだれが一番すきか、と問われたら、ウームとしばし考えて「斎藤茂吉」とこたえるでしょうね、多分。
茂吉のなにがすきなのか、といえば、その人物がすきなのである。
今回は、この茂吉の、文章について申しあげよう。

茂吉は歌人である。すぐれた歌をたくさんつくっている。しかしまた、文章も上手であった。茂吉のような文章が書ければ死んでもいいと言った人がある、北杜夫さんが書いている。そういわれても不思議ではないほど、よい文章を書いた。
考えてみれは当然だ。歌というものはごく短いから、つかうことばは、一つ一つえらびぬく必要がある。最も適正なことばをえらびにえらんで歌にしなければならない。さらに、そのことばはよいリズムをもっていなければならない。こういう修業を、ずっとやってきた人である。
文章を書くときには歌をよむときほどの苦吟はしなかったかもしれないが、そういった修業をつんでいるから、どんな文章であっても、やはりすべてのことばがはまっている。ここはこれでなければならない、ということばがつかわれている。そして、その文章にはリズムがある、こころよい節奏感がある、これはおのずからそうなるのであろう。
茂吉は、性格的に非常に多様な、幅のひろい人だ。
いっぽうには、いかにも東北の農村で育ったらしい、ずぶとい、たくましい性質がある。重厚で、沈鬱だ。もういっぽうには、繊細な、弱々しい面がある。それが歌にしても、文章にしても、あるときには強いふといところとなり、またあるときには弱々しく感じさせる部分となってあらわれる。さらに、たいへんしつこい性格と、淡泊で無頓着な性格をもあわせもつ、複雑な人である。
歌にも文章にもいえることだが、茂吉の書いたものには諧謔感がある。可笑しいところがある。これが茂吉の作品の一番の特色であろう。いうことなすことが滑稽だ。ぼくは以前、斎藤茂吉とはどういう人であったかと問われれば、たったの三言でこたえることができると言ったことがある。
鰻のすきな人であった。
小便の近い人であった。すぐおこる人であった。
もちろん半分は冗談だが、しかしたしかにそうでありました。
山形に疎開していたころ、いつでもすぐ小便ができるようにバケツを持ちあるき、それを「極楽」と名づけていたのはよく知られたはなしだ。小生山形県上山の斎藤茂吉記念館まで行って、そのさびちょろけたバケツを見てきました。
茂吉がすぐおこる人だったということについては、加賀乙彦さんが、自律神経失調症だったからだと書いている。「ちょっとした刺戟で、不機嫌は爆発となり、ときにはとめどもない憤怒として噴出しました」(『鴎外と茂吉』「茂吉の性格」)
茂吉は鰻ずきで、鰻だったら三百六十五日、毎日食ってもあきないというほどだった。戦争中の歌に、
〈これまでに吾に食はれし鰻らは仏となりてかがよふらむか〉
というのがある。これまでに何千匹の鰻を食ったかしれないが、自分の腹のなかで成仏した鰻らは、極楽へ行って、蓮の池でひかりかがやいて泳いでいるであろうか、という歌で、本人はまじめにつくったのだろうが、諧謔感がある。最晩年にはこんなのもある。
〈ひと老いて何のいのりぞ鰻すらあぶら濃過ぐと言はむとぞする〉
たいへん深刻な歌だ。年をとると、「ひと老いて何のいのりぞ」とは身にしみてわかるようになるものだ。それにしても、「いのり」ということばをよくぞここへ持ってきた。ぼくなんかには、そこへぴったりとはまることばは百年考えたって出てはこない。「鰻すら」-あんなにすきだった鰻でも、「あぶら濃過ぐと」-あぶらが濃すぎるよと言いそうになってしまう。そういう老いのなげきをうたった歌ではあるが、しかしやっぱり滑稽である。可笑しい。これが茂吉の本領である。
北杜夫さんは「茂吉のフモール」といっている。「フモール」は英語の「ヒューモア」であり、つまり「ユーモア」である。滑稽といい、可笑しさといい、諧謔といい、同じことだ。フモールとはギリシャ語でもともと体液のことだそうで、北杜夫さんは、それは茂吉の体のなかにあるものなのだ、と書いていらっしゃる。
宇野浩二も茂吉について書いているが、その文章の持つ可笑しさのことを「愛敬[あいきやう]」といっている。なかなかうまいことばだ。茂吉の文章には愛敬がある、というのは、まことに的確であると思う。
茂吉が生涯に書いた文章は非常に多い。
本職の医学方面の論文を別として、主要なものは、短歌論、歌人論である。
しかしそれ以外の文章もずいぶん書いている。茂吉の文章を愛する人が多く、したがって新聞、雑誌等からの注文も多かったからだろう。
そういうなかから、とりわけ世評の高いものを四つえらんでみた。「念珠集」、「三筋町界隈」、「手帳の記」、そして「滞欧随筆」のなかの「接吻」である。
これらのほかにも、茂吉を代表するものはこれだ、という文章はいろいろある。たとえば、茂吉のいちばんの同志であり親友であった島木赤彦が死んだときの「島木赤彦臨終記」や、「仏法僧鳥、」「巌流島」などをあげてもよいが、ここではさきの四つを御紹介する。

 

二人の父-「念珠集」
茂吉は大正十四年のはじめに、医学の勉強に行っていたヨーロッパから、火事で焼けた青山の家に帰ってきた。「念珠集」は、焼けのこった風呂場で勉強していたという、たいへんおカネに苦労をしていたころに、雑誌『改造』からたのまれて書いたものだ。
十の短篇からなっている。最初の「八十吉」を大正十四年十一月号に、あとの九つ-「痰」「新道」「仁兵衛。スペクトラ」「漆瘡」「初詣」「日露の役」「青根温泉」「奇蹟。日記鈔」「念珠集★」-をいっぺんに大正十五年四月号に発表し、のちにあわせて鐡塔書院で本にした。鐡塔書院は小林勇岩波書店をやめて、一人ではじめた本屋である。
「念珠」は数珠のことだ。「念珠集」は、死んだ父親の思い出の一つ一つを、数珠の珠になぞらえて書いた。
茂吉には父親が二人ある。だから茂吉は生れたときには守谷茂吉といい、二十代で斎藤紀一の養子に入り斎藤茂吉となったのである。
茂吉は山形県の金瓶[かねかめ]という僻村に、守谷家の三男坊として生れた。のちにあれほどの人物になるくらいだから、子どものこれから優秀で、いや優秀をとおりこして神童であった。
この時代、通常ならばいくら秀才であっても田舎に生れたら生涯百姓、よくても坊主になれるかどうかといったところである。しかし茂吉は運がよかった。こんなにかしこい子を田舎で農民にしておくのはかわいそうだ、もったいない、縁つづきの斎藤紀一が医者になって東京で成功しているから、これにたのんで学問をさせてやろうじゃないか、ということになり、小学校を出た年に上京した。明治二十年代のことで、小学校は尋常が四年、高等が四年、合計八年である。茂吉は十五歳で卒業し、実父につれられて東京に出て、一人斎藤家に寄寓することになった。
このときには、おそらく養子にするときまっていたわけではない。実際、養子に入って斎藤茂吉になるのは、それから十年もさきのことだ。最初は、縁つづきの家の頭のいい男の子をあずかって-そういうところは斎藤紀一は太っ腹な男だから-学校に行かしてやろうというだけのことだった。茂吉が中学校から一高をへて東京帝大医科大学に入ったときに、養子縁組がおこなわれた。
のちに夫人となる輝子は、茂吉が上京したときにはまだ赤ちゃんだが、十年たつと十いくつの少女になる。斎藤の両親は、茂吉が医科に入ったのをみて、病院をつがせて娘の輝子とめあわせようと、養子にしたのだろう。
そういうわけで、茂吉には父が二人あり、母が二人ある。
守谷のほうの親、つまり実の親のうち母親については、『赤光[しやくこう]』に「死にたまふ母」という、茂吉の歌のなかでも最もよく知られた連作がある。
〈死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる〉
〈のど赤き玄鳥[つばくらめ]ふたつ屋梁[はり]にゐて足乳根[たらちね]の母は死にたまふなり〉
など、日本人だったらだれでも聞いたことのある歌だ。そこにある切実さ。母親が死ねばかなしいのはだれにかわりはないだろうが、茂吉のばあいは格別である。十五のときに離れて、なにか大っぴらには親であるといいにくい立場になった。このためにかえって実の父母を思う情が深刻であるということが、「死にたまふ母」に、あの深いかなしみとなってあらわれているようである。
母の死からしばらくのちの大正十二年、茂吉がヨーロッパにいたときに、守谷の父が死ぬ。これをいたんで書いたのが「念珠集」である。
「念珠集★」という全体のあとがきに、茂吉はこう書いた。
〈「念珠集」は、所詮『わたくしごと』を記に過ぎないから、これは『秘録』にすべきものであった。それであるから、僕の友よ、どうぞ怒らずに欲しい。〉
しばらくさきにまたこうある。
〈「念珠集」は所詮、貧しい記録に過ぎぬ。けれどもさういふ悲しい背景をもつてゐるのである。僕を思つてくれる友よ。どうぞ怒らずに欲しい。〉
「どうぞ怒らずに欲しい」と、すこしおいて二へんくりかえしている。こういうところが茂吉の弱々しい面のあらわれで、ふつう死んだ父親の思い出を書いて息子があやまらねばならない理由はない。「死にたまふ母」とおなじことだが、実の父について語ることははばかるべきだ、という気持が茂吉にあるからであろう。
実父について語ったからといって、実際にはだれがおこるわけでもない。しかし茂吉自身は、自分をひきとって、学者にしてくれ、医者にしてくれたのは斎藤の父であるから、守谷の父について書くのは遠慮しなければいけないと思っている。それでこんなふうに書かずにはいられなかったのだ。
ここでは、「念珠集」の初めと終りのところを引いておこう。
まず冒頭。
〈僕は維也納[ウインナ]の教室を引上げ、★[きふ]を負うて二たび目差すバヴアリアの首府民★[ミュンヘン]に行つた。そこで何や彼や未だ苦労が多かつたときに、故郷の山形県金瓶村で僕の父が歿した。真夏の暑い日ざかりに畑の雑草を取つてゐて、それから発熱してつひに歿した。それは大正十二年七月すゑで、日本の関東に大震災のおこる約一ヶ月ばかり前のことである。
僕は父の歿したことを知つてひどく寂しくおもつた。そして昼のうちも床のうへに仰向に寝たりすると、僕の少年のころの父の想出が一種の哀調を帯びて幾つも意識のうへに浮上つてくるのを常とした。或る時はそれを書きとどめておきたいなどと思つたこともあつて、ここに記入する『八十吉』の話も父に関するその想出の一つである。かういふ想出は、例へば念珠の珠の一つ一つのやうにはならぬものであらうか。〉
つぎは末尾。これは、父が高野山へ参ったおりの日記を見て書いたくだりである。
〈道中自慢であつた父も、その時は既に六十四五になつて居り、四十歳ごろから腰が屈つて、西国の旅に出るあたりは板に紙を張りそれを腹に当てて歩いてゐた。さうすれば幾分腰が延びていいなどと云つてゐたのだから、高野の旅なども矢張り難儀であつたらうと僕はおもふ。そして、僕らが食べたやうな、汁の中にしよんぼりと入つた饅頭を父も食べたのだらうとおもふと、何だか不思議な心持になるのであつた。これを「念珠集」の★とする。(大正十五年二月記)

 

故郷を遠く離れて-「三筋町界隈」
つぎは「三筋町界隈」です。
三筋町は、東京浅草の地名である。さっき申したように、茂吉は明治二十九年に十五歳で小学校を卒業し、その年、守谷の父親につれられて東京の斎藤家へ行った。このときの守谷の父について、「三筋町界隈」のはじめのところに、
〈逆算してみるに明治二十九年にはまだ四十六歳のさかりである。併し父は若い時分ひどく働いたためもう腰が屈つてゐた。〉
とある。四十六歳というと、いまでいえば壮年で、この当時だって茂吉が書いているように「さかり」だったけれども、見たところはかなりおじいさんのようであった。その父親といっしょに仙台まで歩き、仙台から汽車で東京へ出て、浅草三筋町の斎藤紀一の家-お医者さんだから医院です-に入った。
「三筋町界隈」には、この明治二十九年から三十年代のはじめごろ、茂吉が神田の開成中学にかよっていたころのことが書かれている。僻村の少年が突然東京へ出てきて、他人の家に住み、見るもの聞くものが目新しく、また心細くもあったころだ。
夜になって到着した上野駅の煌々と明るかったこと。斎藤家の書生が見せてくれた大人の世界のこと。中学の三年でおぼえた煙草の味のこと。ずうずう弁で素読をして先生や級友にわらわれたこと。はじめて食べた東京の食べもののこと。天下の名妓とうたわれた「ぽん太」へのあこがれ。随所であった火事のこと。蚤を飼って観察していたこと......。
思いだすまま、といった風情のこの随筆は、三筋町時代に入手した「賀茂真淵書入の古今集」を、後年になって火事で焼いてしまったことにふれておわるのかと思いきや、最後の最後に、上京してすぐの年に女中につれて行ってもらった女湯の光景がつけくわえられている。
この珍品「賀茂真淵書入の古今集」は斎藤の父が診察の謝礼としてもらったもので、真淵を崇拝していた茂吉は「天からの授かり物のやうに」大切にしていた。茂吉の書架のなかでは最上等のものであったのに、火事であっさりと焼けてしまった。三筋町時代を回顧するたびにこの本のことを思い出して残念がるのだ、と書いている。女湯の光景がつづられるのは、このすぐあとだ。
〈まへにも一寸触れたが、上京した時私の春機は目ざめかかつてゐて未だ目ざめてはゐなかつた。(中略)女中が私を、ある夜銭湯に連れて行つた。さうすると浴場には皆女ばかりゐる。年寄りもゐるけれども、綺麗な娘が沢山にゐる。私は故知らず胸の躍るやうな気持になつたやうにおぼえているが、実際はまださうではなかつたかも知れない。女ばかりだとおもつたのはこれは女湯であつた。後にそのことが分かり、女中は母に叱られて私は二たび女湯に入ることが出来ずにしまつた。私はただ一度の女湯入りを追憶して愛惜したこともある。今度もこの随筆から棄てようか棄てまいかと迷つたが、棄てるには惜しい甘味がいまだ残つてゐる。〉
十五の少年を女湯に入れる女中の了見はどうかと思うが、茂吉自身も稀有な体験をしたことは自覚しているようだ。「真淵書入の古今集」にかけた文字数とおなじくらいの分量をつかって、女湯を追憶するのである。淡々とした筆致がその落差をうめているのが可笑しい。
この文章にはところどころに斎藤紀一も出てくる。のちには青山脳病院を開業する紀一だが、三筋町当時は専門を限定せずになんでもみた。大学の医者がみはなした病人をなおしたという例もいくつかあって、浅草区では流行医になっていた、とある。
北杜夫さんの『楡家の人びと』には、斎藤紀一がたいへんおもしろく書かれている。実際ああいう人であったようだ。茂吉は、実の父とはまるで種類のちがう人間である紀一の家に住み、やがてその人を父とし、またその娘であり紀一の気質をそのままうけついだような輝子を妻とすることになる。
斎藤輝子といえば、これはまた著名な人だ。「女傑」ということばは、この人のためにあるのではないか。茂吉が死んだあとも長く生きて、海外旅行ばかりしていた。この人が著名になったのは、たぶん茂吉が死んだからだろう。もっとも茂吉が生きているあいだにも、ずいぶん新聞ダネになったものだが、それはまた別のはなしになる。

 

執拗なる手帳魔-「手帳の記」
「手帳の記」は、昭和五年、平福百穂ひらふくひやくすい]、中村憲吉と三人で島根県益田の柿本人麿の神社へ行き、この益田で手帳をなくして、見つかるまでのはなしを四つの章にわけて書いたものだ。この章のたてかたが起承転結の妙を得ていて、実におもしろい。「手帳の記」は宇野浩二が絶讚するもので、そのいうところの「愛敬」のある文章である。
茂吉にとって、手帳はたいへん大事なものであった。いつでも持っている。歌人であるから、どこででも歌を考え、できるとそれに書く。あるいはできつつあるときにも書く。そういう手帳がおそらく百冊も二百冊もあったのだろうが、茂吉が死んだときにのこっていたのは六十数冊だった。茂吉の家も病院も、大正の末に火事を出して全部焼け、さらに昭和二十年の空襲でもう一ぺん丸焼けになる。このときに手帳も相当焼失したのだろう。
茂吉は数多くの歌集を出している。歌集をつくるもとになるのが、手帳だ。そのときどきに歌を書いておき、あつめたり直したりして歌集にする。それも一年や二年のうちではなく、ばあいによっては十年、あるいはもっとあとになってむかしの手帳からつくることもあるのだから、手帳の大切さははかりしれない。歌だけでなく、柿本神社では風景をスケッチしている。そういうのも手帳でやった。
「手帳の記」には、こんなはなしも書かれている。
柿本神社平福百穂がおみくじをひいたら、運勢がこう書いてあった。「思ひかけぬ幸あり。心をやはらかにもてば、目上の人に引立てらるる事あり。万事心のままなるべし」。そのあとに神道訓話として、「神さまからおやくめつくせと下さつた此からだを以て、のらりくらりあそんでばかりゐて、神様におたすけを御願すると云ふは無理な事である。御助け下さらぬなどと御恨みしてはならぬ」とあったのでわらった。
なぜこんなことが書けるのか。こういう意味のことが書いてあった、というのではなく、文言がそのとおり書かれているのは、茂吉が手帳にうつしとったからなのですね。むかしは手帳魔といわれる人がよくあったが、しかし他人がひいたおみくじの文句までそっくりそのままうつしとるなんていう人は、めったにいないのではないか。その手帳を、その日のうちになくしてしまったのだ。
さきにいったように、茂吉は執念深い人である。ふつう、執念深いといえばいやな性格なのだが、茂吉のばあいには、しつこいところが愛嬌となっていて可笑しい。茂吉のしつこくて滑稽なところがよく出ているのが、この「手帳の記」だ。
手帳をおとした。どこでおとしたかはわからないが、とにかく益田であることはまちがいない。益田といったって、行った範囲は知れている。柿本人麿の神社で風景をスケッチしたあとに境内でおとしたか。そこからタクシーで益田駅へ出て、駅前で手帳がないことに気がついたのだから、そのあたりでおとしたか。思いあたる範囲はかぎられているのだけれども、そのさがしかたというのがもうしつこい。
ふつうの人ならそれが手帳でも財布でも、これほど執拗にはしないだろうというような捜索をする。小学校へ行き教頭先生に会って、子どもがもし手帳をひろったらここへとどけるように言ってくれ、とたのむ。教頭先生は全校児童をよびあつめ、東京の青山脳病院長の斎藤先生がこの益田で手帳をおとされた。もしみなさんのなかで見かけぬ手帳をひろったものがあったら、どこそこへとどけるように、と訓示する。また、この旅先の茶屋でポスターを書く。手帳をおとした、もしひろった人はどこそこへとどけてくれ、謝礼はいくらするというようなことを書き、赤インキで二重丸三重丸をつけ、よくめだつようにして、益田の停車場や、その他目につきそうなところに貼る。
茂吉は神社でおとしたと思ったのだが、実はタクシーをおりてから駅前の茶屋までのほんのわずかを歩いた、そのときにおとしたらしい。茶屋についたときにないと気づいて、タクシーまでもどってさがした。その途中ももちろんさがしたけれども、もうなかった。というのは、おとしたとたんに一人の青年がひろっていたのだ。ポスターがものをいって、これがもどってくる。
手帳のはなしの読みどころの一つは、この手帳をさがすについての、益田でとまった旅館の番頭の尽力である。茂吉は、しきりにこの番頭に電話をかけ、手帳をさがしてくれ、さがしてくれとたのんでいる。ついに見つけたときには、番頭は電報でまずしらせ、茂吉が東京へ帰ってから、手帳がどういうふうに見つかったのか手紙でしらせている。「手帳の記」にはその全文が引いてある。
番頭の手紙をまるまるうつした本物なのか、それとも、多少は茂吉が手を入れているのかは、わからない。だいたいそのままなのだろう。相当長い手紙だが、これが実にいい。こんな調子だ。
〈色々御心配仕り候へども、見当らずにて残念に候へ共、御尊台様丁度四時四十八分の列車にて、益田駅出発後、私は又駅前に出で、所々家々により尋ね候ひしが、駅前運送店の小使なる者、彼の手帳を拾ひたる事聞き申候にて、直ちに参り候へば、一人の男申すには、荒木なる者ノート一冊駅前にて拾ひ居る旨申し候にて、其様子承り見れば、表紙に、北平ノ其二と記し有る旨申し候にて、現品は見ね共、御尊台様に御安心致さす為め、駅に行き青原駅到着頃二等室御客様にて斎藤様と申す御方に申し下さる様駅長様に依頼致し、御電話にて申し御知せ致し候次第に御座候。〉
昔は手紙を書くのにきまった型があり、それにしたがえばちゃんと書けた。これもその型どおりの手紙なのだが、それにしても、益田というごくちいさな町の旅館の番頭のこのように必要なことをしっかり書く能力には端倪[たんげい]すべからざるものがある。この手紙全文が「手帳の記」のなかで、大きな効果をあげている。

 

やはり可笑しい-「接吻」
ヨーロッパにいたころのことを書いた随筆「滞欧随筆」は、特に世評が高い。茂吉の書いた文章のなかで何がいちばんいいかは人によってすきずきだろうが、おそらく多くの人がこれをあげるのではないか。
茂吉は大正十年、四十歳の年にヨーロッパへ医学の勉強に行き、大正十四年に帰ってくる。このあいだにかなりあちこち旅行をしている。そんなヨーロッパでの経験をつづったのが「滞欧随筆」である。
その代表として、「接吻」の一部をあげておこう。「接吻」は四つの部分にわかれていて、実際の接吻を見て書いたのが二つ、絵にある接吻を見て書いたのが一つ、「接吻」ということばについて考えたのが一つである。
その「一」は、茂吉がオーストリアのウィーンで見た接吻のことだ。最初から読まないとこの文章の妙味はわからないのだが、長いからそのごく一部分を引くにとどめる。
散歩の途中で、男と女が接吻しているのを見かけた。男はまずしいなりをしている。女は背が低く、帽子をかぶっているのでどういう顔かはわからない。男の背が高いので、女はのびあがって接吻していた。
〈僕は夕闇のなかにこの光景を見て、一種異様なものに逢著したと思った。そこで僕は、少し行過ぎてから、一たび其をかへり見た。男女は身じろぎもせずに突立つてゐる。やや行つて二たびかへりみた。男女はやはり如是である。僕は稍不安になつて来たけれども、これは気を落付けなければならぬと思つて、少し後戻りをして、香柏の木かげに身をよせて立つてその接吻を見てゐた。その接吻は、実にいつまでもつづいた。一時間あまりも経つたころ、僕はふと木かげから身を離して、いそぎ足で其処を去つた。
ながいなあ。実にながいなあ。
かう僕は独語した。そして、とある居酒屋に入つて、麦酒の大杯を三息ぐらゐで飲みほした。そして両手で頭をかかへて、どうも長かつたなあ。実にながいなあ。かう独語した。そこで、なほ一杯の麦酒を傾けた。そして、絵入新聞を読み、日記をつけた。僕が後戻して、もと来し道を歩いたときには、接吻するふたりの男女はもう其処にゐなかつた。
僕は假寓にかへつて来て、床のなかにもぐり込んだ。そして、気がしづまると、今日はいいものを見た。あれはどうもいいと思つたのである。〉
西洋人の接吻は、そんなに長いのですかな。茂吉がとおりかかったときにはもうくっついていたのだから、見ているあいだの一時間よりは長いらしい。その長さにも感心するが、また茂吉がそれを一時間あまりずっとみていたことが、どうにもおもしろい。
この「接吻」という随筆はよい文章であるが、これもやっぱり可笑しい。もう四十にもなるのに、一時間あまりもつづく接吻をずっと見ている茂吉という男が、いかにも滑稽である。なにもそんなに長いこと見ていなくともいいだろうに、感動したのか、ずっと見ている。そのあと居酒屋に入って、ながいなあ、実にながいなあとつぶやきながらビールを飲む。さらにそれからまた、まだやってるかなあと、もどってみる。さすがにもういなかった、というところではぼくらも茂吉といっしょに「ながかったなあ」と思う。
これが北杜夫さんのいう、「茂吉のフモール」なんですね。北杜夫さんによれば、これは茂吉という存在そのものが持つ可笑しさであり、自然ににじみ出てくるものである、というわけだ。
しかし、やはり茂吉は、そんな自分をえがいたこの文章は、人におもしろがってもらえるだろうと自覚していたのではないだろうか。茂吉ほどの鋭敏な人が、自分の歌や文章が読む者にどういう感じをあたえるか、どのように受けとられるかということに鈍感であったはずがない。全部計算していたとはいわないにしても、わかっていてこういう文章を書いたにちがいないと、ぼくは思っているのである。