「ある書店への感謝 - 池澤夏樹」日本の名随筆別巻50本屋から

f:id:nprtheeconomistworld:20220312094854j:plain

 

「ある書店への感謝 - 池澤夏樹」日本の名随筆別巻50本屋から

一年前から某誌にハワイについての連載をしていて、その取材のために何度も足を運んでいる。今もこの太平洋の真ん中にある島々を渡り歩いて、人の話を聞いたり、写真を撮ったり、資料を集めたりしているところ。読む人がおもしろがるかどうかはともかく、書いている本人はおもしろくてしかたがない。
さきほど、本屋と博物館のショップをまわって、本やらビデオやらいろいろ資料を集めてきた。こういう時は大袈裟にいえば金に糸目はつくない。目前のテーマに何か関わりがありそうなものには迷わず手を伸ばす。いや、一見関わりのないことでも将来それが何かの役に立つかもしれないと思えばなるべく買うようにする。旅先では出会った時が機会だから、衝動を抑制しない。だから、帰路の荷物はいつも往時よりもずっと重くなる。
実際には、本というのはずいぶん安いものである。本屋で一山買った気になっても実際には一〇〇ドルとかせいぜい二〇〇ドル。一冊の一行に書いてあることが話の流れを変えたりする。そういう時のその一行の価値を考えれば、あらためて本は安いと思う。問題はその一行にどうやって出会うかだ。立ち読みという手もあるが、真剣に読むには買うしかない。

ある時、自分が買い物一般についてはずいぶん臆病なのに、本だけは大胆に買うことに気づいて、不思議に思った。職業から言って当然ではないかと言われるかもしれないが、ノンフィクションを書かない作家は少なくないし、資料はおろか他人の本をほとんど読まない作家だっている。本屋読むことも、本を買うことも、一種の習慣なのだ。
ぼくの場合、読んで楽しい本を買うのはもちろん、まず通読はしないというものでも手が伸びる。英語で書かれた蒸気機関車の運転法の本を買った時は、自分はいったいどういうつもりだろうと後で考えた。小説の中で主人公が悪い奴から逃げるのに、操車場の隅にあった古い機関庫をみつけて、それを運転する?しかしぼくは冒険小説は書かないし、その本を買った時はまだいかなる小説も書いていなかった。

興味のありそうな本をとりあえず買うという癖がついたのは、ずいぶん若い頃のことだ。大学を中退して翻訳のようなことをやりながらふらふらしていた時、日本でも有数の洋書屋であるM書店の売り場の人と知り合いになった。この人が太っ腹で、払いはいつでもいいですよと言ってくれた。広い売り場の本が全部自分のものであるような気がした。社会的経済的に何の信用もないふらふら者によくあんなことを許してくれたものだ。
有頂天になって、それにしても常識的なリミットがあるぞと思いながらも、月に一、二度行っては欲しい本を遠慮なく家に運んだ。当然ツケがたまるけれども、これが相当な額になっても催促は来ない。踏み倒すつもりはなかったから、臨時の収入があった時に総額の二割ぐらいを払った。すぐまた買うから、全体の額はあまり変わらない。
太っ腹なのはぼくの相手をしてくれた人だけでなく、M書店全体の方針なのだと後で知った。大学などにもどんどん本を貸し売りして、そういう形で日本の学問を支えてきたとか。明治以降の日本はひたすら欧米文化の輸入に力を尽くしてきた。独自のものが生まれるのはその後の話だ。そういう意味で、洋書屋というのは文化の流れの入口にあたる。M書店のような代表的なところでその経営方針が鷹揚だったのは日本にとって幸運だった。少なくともぼくにとっては願ってもない幸運だった。大学図書館などの狭量と権威主義を思い出してみれば、この分野でもやはり民間は官僚よりも偉いということにはならないか。

何でも知りたいあの年頃で、少なくとも英語の本について、読みたいかぎりのものが手に入るというのは大変な福音だった。最近はこれでも少し保守的になったと思っているけれども、昔はありとあらゆるものに手を出した。自分の精神の形が自分でもよくわかっていなくて、さまざまな本を読むことでそれを探っていたような気がする。少しはそれがわかったと思えるようになったのはごく最近のことだ。
年をとったから、こういうことを言うのかもしれない。精神の硬化を防ぐためにも、ますますいろいろな本に手を伸ばそう。そう考えたわけでもないのに、今回買った資料で一番多かったのはサーフィンに関する本だった。