「洋書店文化の黄昏 - 奥本大三郎」文藝春秋刊 03年版ベスト・エッセイ集から

「洋書店文化の黄昏 - 奥本大三郎文藝春秋刊 03年版ベスト・エッセイ集から


銀座に関して、近年でいちばん惜しいと思ったのは、「イエナ洋書店」が店を閉めたことであった。
「あす十七日、私が勤める東京・銀座のイエナ洋書店が、五十一年余りの歴史に幕を下ろす.....」
という、店長氏の文章を一月十六日の新聞で読んだときは、「えっ」と驚いた。添えられた写真に、ネクタイをきっちり締めたワイシャツ姿の、口をきゅっと結んだ筆者、武内武志が出ている。店でよく見かけたお顔である。
初めて私が洋書というものを買ったのは中学一年のとき、日本橋の「丸善」からであった。といっても店頭で選んで買ったのではない。大阪の田舎に住む中学年に、外国の本の買い方なんかわからないから、早稲田を出て父の会社にいた従兄に洋書のカタログというものをもらって、 手紙を書いたのであった。この従兄は早稲田のいろいろな学科を転々としながら、学年を裏表、合計八年も丁寧になぞった人物で、読んだかどうかは知らないが本だけはよく買っていた。
中学一年になって英語の初歩を習った私は、英国の蝶のポケット図鑑を買って、知らない単語の海に乗り出したのであった。キプリングの『ジャングルブック』などもその後で取り寄せたけれど、こっちはまるで歯が立たなかった。それでも挿絵を見てキャプションを読み、本の匂いを嗅いだ。パラフィン紙のカヴァーで包んだ英国の本は、なんともいえぬ匂いがした。
カタログを見て本を買う、というのも楽しいけれど、実物が並んでいて直接手に取って見られるのはもっとありがたい。
東京の大学に入って、銀座で「 イエナ」の店を知り、動植物の大型図鑑が豊富に揃えられているのを発見したときは、さすが東京、と思った。
熱帯の鳥や蝶、砂漠に棲む奇妙な甲虫などの美しい絵が入った本を見つけると、ポケットのお金を数えなおしてからレジに持って行った。バーゲンのときなぞはこれ以上持てない、というほど買ったこともある。
「イエナ」で待ち合わせをして、あまり正確すぎる時間に相手が来たので、本を見る暇がなくてむっとしたこともある。私のほうがもっと早く来ればよかったのだけれど。
パリに行って、「イエナ通り」などなどを通ると、銀座の書店のほうを想い出した。パリのほうは、ナポレオンが一八〇六年にイエナでプロイセン軍に大勝を収めたのを記念したものだろう、とよく調べもしないで 想っているのだが、日本の本屋さんがなんでまた、ドイツの街の名なんかを付けたのかと、ときどき思わぬではなかった。しかし、まあ、お店の人に訊くほどのこともない。
それが、この書店の元の会社が、光学機器の輸入を手がけていたことから、あのレンズのカール・ツァイスの本家筋の会社の創業の地、イエナに因んだ、ということを、この新聞の文章で知った。
表現はあまりよくないけれど、お葬式の時の話で亡くなられた人のことをあらためてあれこれ知るようなもので、一種の手遅れというものである。
私が大学のフランス文学科に入った昭和四十年ごろ、フランスの文学書を取り揃えてある洋書店は東京にずいぶんたくさんあったようである。サルトルボーヴォワールカミュといった現代作家の新刊、旧刊のみならず、古典叢書も、書棚にいっぱい並んでいた。そのころが仏文科の全盛時代だったのかもしれない。方々の大学に仏文の学科、大学院が新設され、教師と学生が増えたのであった。独文のほうもご同様であったと思われる。
それが今は、丸善に行っても紀伊國屋に行っても、独、仏の文学書の売り場は極端に縮小されている。英文のほうは少しましというところだろうけれど、どこの大学でも、英、独、仏の学科から「文学」の文字がはずされたところが多いようで、たとえばかくいう私が 勤める埼玉大学でも、「フランス文化コース」というような名称になってしまっている。学生はなるべくなら原書は読みたくないらしく、文学は避けて映画やダンスなどを卒論のテーマに選びたがる傾向がある。
洋書店に本を見に行くとか、古本屋を漁る学生は少ないし、第一、本は買わない。コンサートのチケット、CDなどは相当高くても買うくせに、千円以上の本なんか、死んでもかいたくない、という顔をする。
その一方で地下鉄内の広告などをみると、結婚式場の広告とならんで英会話教室の宣伝が非常に多い。英語の本は読まないのに、外国人とぺらぺら喋るほうには興味があるのだろう。しかし流暢な発音で、いったいなにを話そうというのであろう。
もしその話の内容が、「カワイーイ」「ウ ソ、マジ?」に類するものならむしろ“神秘的な東洋の微笑”を浮かべて黙っていたほうが、まだしも奥ゆかしい、ということになる。異文化コミュニケーションとか会話能力とか大事そうにいうけれど、今の、見るからに安っぽい中学高校の英語の教科書などは、欧米人旅行者のためのガイド養成本のようであって、あちらさんのためにはずいぶん便利な教育をしている、という感じがしてならない。
今どきこんなことをいうと、いかにも時代に逆行しているように思われるだろうけれど、仏文とはいわないまでも、少しは英米の優れた文学作品も読ませないと、その文化に対する尊敬の念も湧いてこないのではないか、と思う。幼いときに暗誦して一生の宝になるような英詩とか名セリフ、名文を.....と主張し たいけれど、それがいかに現状とかけ離れているのか、ちょっと考えてみればわかることである。
なぜか、といえば、肝心の国語の教科書が優れた文章のアンソロジーとはほど遠いものになっているからである。中学教科書から漱石、鴎外の作品をはずすという。現場の先生自身にそれを教える国語力がなくなっているのだそうである。
その代わりに芸能人の手記などが増えている。その印税は芸能人本人にいくのか、それともゴースト・ライターのほうにいくのか、いっぺん訊いてみたい。
国全体としては、「構造改革」を急がねばならないのだろうけれど、教育が今のままでは、銀行の破綻などより、もっと哀しいことが起きるに違いない。洋書店がつぶれるのはインターネットのせいばかりではあるま い。