(巻三十六)この水も年金のうちそろと撒く(木島茶筅子)

(巻三十六)この水も年金のうちそろと撒く(木島茶筅子)

3月22日水曜日

今朝は晴れ。朝家事は無しだが、細君のお供で駅前の家電店へ参る。細君が寝床で聞くCD-ラジカセが不調で買い換えるとのこと。で、CD-ラジオとラジカセを1台ずつ買っていた。動かすのに便利な小型で軽いもの、操作が簡単なものということで一体型ではなく組合せにしたそうだ。ラジカセなども絶滅品種かと思ったがCDラジカセを含めて20種類ほど並べてあった。語学講座が始まるこの時期はラジカセ類の売り時らしく、その売り口上が目にとまる。今もラジオ語学講座は聴かれているのか!

農はじめラジオに電池入れ替へて(松倉ゆずる)

11時に帰宅。洗濯をいたす。

昼飯喰って、一息入れて、散歩。クロちゃんに遊んでもらってスナックをあげた。喉を掻いてあげると目を細める。

そこから駅前に歩き、家電店に上がりICレコーダーを見分する。充電型が主流になってきたようだ。ラジカセはよく壊れるようで細君なども3年もてばいいようなことを言っている。メカニカルな部分が多いからだろう。そこへ行くとICレコーダーは壊れない。今使っている中で一番古いのはOLYMPUSのV802という機種だがとうに絶版になっている。そんな代物だが元気に働いている。買い急ぐことはないが、いずれ8GBの充電型を買うことになるかな。

そこから北口のモツ吟へ回り、胡瓜のわさび漬け、タン塩2本、厚揚げ焼きでホッピー中一をいただく。1300円也。胡瓜旨し。

願い事-涅槃寂滅、酔死か即死です。

昨日、火曜日は昼も飲まず、寝酒もせず、FM葛飾の鉄ちゃん番組を聞きながら寝た。喉は渇かなかったが、夢が多かったような気がする。熟睡ではなかった。死んだように眠って、そのまま起きてこなかったというのが理想だ。

今日は

https://www.bbc.co.uk/programmes/m000nm04

を聴く廻り合わせになった。昨日の番組よりは分かりやすい。

語学講座の絡みで、

「「日常会話」という幻想 - 黒田龍之助」外国語の水曜日再入門から

を読み返してみた。

死に支度致せ致せと桜かな(一茶)

「「日常会話」という幻想 - 黒田龍之助」外国語の水曜日再入門から

国語学習の目指すレベルとして、「日常会話ぐらいは」という人がいる。甚だあいまいな表現だが、これはいったい何を意味するのだろうか?

外国語の運用能力にもいろいろある。挨拶しかできないというものから、難しい専門用語を駆使することができるレベルまで、実にさまざまだ。まあ、専門レベルはちょっとたいへんそうだし(それにそういう難しそうなことは日本語でもちょっと……)、そんな特殊なことではなくて、日常的にふつうに使っている程度ができれば十分満足。それだったら、そんなに難しくもないはず。せめてそれぐらいは外国語でもできるようになりたい。

では、あなたは日常、どんな会話をしているだろうか?ためしに一日中の自分の発話を録音して吹き込んでみるといい。いやいや、しかしそこまでしなくても、少し考えてみればそんな単純なものではないことが想像つくことと思う。

たとえば夕食のときの話題(一人暮らしの人だったら、親しい友人と喫茶店で一時間ぐらいおしゃべりしているところを思い浮かべてほしい)。日本語のネイティブであるあなたは、たとえば日本語の文法は詳しく知らなくても、あらゆる活用形や構文を使い、複雑な文を作っているはずだ。「易しい会話だからあまり使わない文法事項」というのは、文語的なものを除けばほとんどない。ということは、もし日常会話に不自由しないレベルを目指すのであれば、文法は一通り使いこなせなければならない。

次に語彙。いったいどれぐらいの語彙を使っているかは各個人のヴォキャブラリーにもよるし、統計の取り方によってもさまざまな結果が出るだろうが、決して少なくはない。小学生用の辞典である金田一京助編『例解学習国語辞典』(小学館、一九九八年)をめくってみる。なかなか難しい語や慣用句、固有名詞なども含まれているが、大人だったらだいたいは知っているし、ふだんから使っているのも多い。これで二万八〇〇〇語ぐらい。単語はかなりのストックがないとふつうの会話もできない。

これを外国語に置き換えてみれば、日常会話のためには、文法も語彙もかなり身についていなければならないことが想像つく。どうやらあまりらくではなさそうだ。

さらに話題。気楽なおしゃべりを楽しんでいるとき、その話題は多岐に及ぶ。さらにレアリア、すなわち言語外現実を把握していなければ理解できない話題が多い。いくら文法が分かっていて語彙が豊富であっても、たとえば外国人の家に招待されて家族同士の会話をそばで聞いて理解するのはとてもたいへんである。〔そう、どこでも家族はことばを超えたところで共通に理解し合うところが多い。イタリアの作家ナタリア・ギンズブルグ『ある家族の会話』(須賀敦子訳、白水社、一九八五年)を読んでみるといい〕。こうなってくると、もはや単なる言語のもんだいではない。

日常会話をナメテはいけない。日常会話はある意味では会話能力の総決算、最高段階なのである。知識がしっかりあれば、語彙が限定されている専門分野での会話のほうがむしろ楽なのだ。

> しかし、そんな高い(そう、ある意味ではとても高い)レベルの外国語を目指す必要もないのではないか?外国人同士の日常会話だったら、べつに理解する必要もない。こちらに向かって発せられたメッセージでもない限り、分からないからといって何も困らないはずである。

ある真面目な人が英語圏へ行った。地下鉄に乗っていたら車内の現地の人が二人でおしゃべりをしていた。耳を傾けてみたがちっとも分からない。その人は自分の英語能力がまだまだと思ってがっかりしたそうだ。

まったくナンセンスである。他人の会話なんて、よく分からなくて当然なのだ。そんなものはたとえ日本語だって分かるとは限らない。その上、地下鉄の中だったら雑音が多いから、そもそもよく聞こえないのがふつうではないか!

外国語の目標レベルを設定するのは、実はなかなか厄介た。むしろある狭い専門分野に絞ったほうが(たとえば金属工学の論文が読めるレベルなど)、なんとか目標を達成できるかもしれない。それでも会話となると、やっぱり難しいだろう(なにしろ話題を振るのはこちらばかりではないのだから)。

間違えなくいえるのは、自分の母語(わたしたちにとって多くの場合は日本語)のレベルを超えるような外国語習得は、絶対に不可能だということだ。日本語を、それこそ日常どのように使っているかが外国語にも必ず反映するのである。

外国語を学習していくと、必ず母語のことを考えなければならなくなる。