(巻三十五)熱燗や期待するから腹も立つ(高橋将夫)

(巻三十五)熱燗や期待するから腹も立つ(高橋将夫)

12月28日水曜日

寒さは少し緩いが曇天の朝だ。朝家事は洗濯と拭き掃除、それに陽が出てきたので毛布干し。

昼飯のおかずは昨晩のすき煮の煮返しだったが、煮返しは実にうまい。

昼飯食って、一息入れて、今日はアリオの中のヨーカ堂でパジャマを買うつもりで出かけた。

先ず、クロちゃんに挨拶した。いつも歓迎してくれる性格の良い猫だ。好天無風なので久しぶりに中川の土手を歩いてアリオへ向かった。

ヨーカ堂で三千円のを2着購入。売り出しで一割引らしい。屋外のスケートリンクは賑わい、ほかにもアトラクションが設営されつつあった。

アリオから“串納め”をしようと「さと村」に回ったが貸切で入れず。時期が時期だから仕方ない。駅前まで戻る気もせず曳舟川を下り稲荷のコンちゃんを訪ねたが、腹が減っていないときは実に愛想のない猫である。

最後に図書館で予約の本を借りようとカードを読み取り器に翳したら未返却があるからダメと表示された。館内のパソコンで調べたら27日が返却期限の本があった。仕方なく出直して4冊借りたが、うち3冊が外れで、面白くない。

色々と上手くいかないが、こうして息をしているだけでありがたいと思うことにしよう。

願い事-涅槃寂滅です。その息を知らないうちに優しく止めて下さい。

今日は歌舞伎役者の随筆を読んだ。

「弁当 - 八代目坂東三津五郎」アンソロジーお弁当 から

である。下等から上等までの弁当が紹介されているが“下”から始まっていた。

《劇場で働く者の食べる弁当も、香弁(たくあんと菜っ葉の漬け物だけ)が三銭、食い弁(野菜の煮物と魚のあら煮)八銭、卵焼き弁当十銭、刺し身弁当十五銭、並弁二十五銭、上弁三十銭、特上三重弁当五十銭。

下回りの役者は香弁、食い弁を食べていた。これも上等の方で、それ以下の役者は菜番を食べていた。菜番というのは、幹部の役者からわずかの金を寄付してもらって、それを菜番長になった役者が一日いくらと予算を立てて、それで毎日食事を楽屋で作る。》

木っ端役人上がりとしては身分で食い物に差別がある社会の話は後味が悪い。

口直しに

「ナイター・弁当・生ビール - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

を読んだが、球場の弁当にも格差があった。そう言えば生協の寿司折にしてもランクがあるな。格差があるのが社会か。

なりそめは帰省列車の手弁当(細谷定行)

「ナイター・弁当・生ビール - 東海林さだお」文春文庫 タコの丸かじり から

大体において、食事というものは、平和裡に開始され、平穏無事に進行し、大過なく終了するものである。

食事中に、大波乱が起こるということはまずない。(地震でも起これば別だが)

また、そうでないと困る。

食事の途中で、突然立ちあがっ慟哭したり、何事か大声で叫ぶ、という事態は日常生活の中ではまずない。

食事中に、突然不幸がおとずれたりすることも滅多にないし、歓喜の絶頂にみちびかれるということもあまり考えられない。

怒号、咆哮、絶叫、太鼓ドンドコドン、笛ピーピーという喧躁のまっただ中で、食事をするというのも、あまり聞いたことがない。

ところが、まさにこうした中で食事をする、という状況がひとつだけある。

球場で、ナイターを見ながら弁当を食べるときがまさにそれなのである。

ナイターの試合開始は大体六時か六時半。当然夕食どきである。試合終了が大体九時前後だから、何か食べなくてはならない。

“野球は筋書きのないドラマ”といわれるくらいだから、弁当を食っていても何が起きるかわからない。“突然の不幸”などは、それこそ茶飯事である。

味方が大事なところで突然エラーをする。相手チームに突然ホームランを打たれる。味方走者が突然無謀な盗塁をして刺される。何か起きるのは常に“突然”である。

メシなどおちおち食っている状態ではないのだ。

「オッ、このブリの照り焼きおいしそうだな。シアワセ、シアワセ」

と思った次の瞬間、立ちあがってコブシを振りあげ慟哭しなければならない、などということはしょっちゅうある。

むろん、不幸ばかりでなく、幸福もおとずれるから、弁当を食ってはいても、その双方の対応にかなり忙しいことになる。

ゴハンを呑みこもうとしたとたん味方のホームランが出て、ゴハンを呑みこまなければならないし、立ちあがって拍手をしなければならないし、「いいぞォ!」などと声援をおくらなければならないし、しかしその前にゴハンを呑みこまなければならないし、どれから先にやろうかと考えているうちに考えがもつれてゴハンにむせてゲホゲホしたりしている人もいる。

ことしもすでに、三回ほど神宮球場でナイターを見たが、弁当を欠かしたことはない。生ビールも欠かしたことがない。

生ビールに弁当、この黄金の組み合わせは、屋外に出てその本領を発揮する。

生ビールに弁当、それに“頬にあたるそよ風”が加わると、屋外の食事の黄金の三点セットとして完璧となる。

これにさらに、“ひいきチームの優勢”が加われば、もはや何もいうことはない。

試合開始十五分ほど前に球場に行き、それまでに弁当とビールを確保し、きちんと揃えたヒザの上に弁当、右手にビール、耳にラジオ、そうしておいてアンパイアの試合開始のコールを待つ、というのがいつものぼくのパターンなのである。

このあたりは駅弁に似ている。

駅のホームで弁当を買って乗りこみ、列車が発車してもすぐには弁当を開かないものである。

いつ開くかというと、車窓の景色がよいところにさしかかったときにようやくおもむろに弁当のヒモに手をかける。

列車における。“景色のよいところにさしかかった”に相当するのが、“味方のチームがチャンスにさしかかったとき”なのである。

「そうそう!よしよし!」などと言いながら、おもむろに弁当を開く。

神宮球場の弁当は、その日によって少しずつ違うが、幕の内、洋風幕の内、ひれかつ弁当、スキヤキ弁当など数多く用意されている。

ぼくはもっぱら幕の内弁当を愛用しているが、これには千円と千五百円のがある。

同じ幕の内でありながら、五百円の差、というのは大きい。五百円あれば、ホカ弁ならもう一個ラクに買える。ホカ弁のシャケ弁なら、もう二個買える。

だから弁当屋としては、五百円の差を客に何とかして納得させなければならない。

ひと目でわかる五百円の差を出そうと腐心する。

まず容器が違う。

厚さ五ミリほどもあるポリエチレンの箱には、桐箱風の木目が印刷されている。深さも、千円のより三ミリほど深い。

おかずの種類は、十二対十三と大差がないので(むろん内容がちがうが)、銀紙、笹、パセリなどを多用してその差を明確にしようとしている。

しみじみ眺めると、「五百円の差を見せるのに全精力を使いきってしまって、あとのことはもう知らんッ」というふうに見えないこともない。

ぼくが幕の内を愛用するのは、「その多彩なおかず群をビールのツマミに流用しよう」との魂胆からなのだが、いくら多彩といっても、せいぜいビール二杯ぐらいまでである。三杯目となると、次のツマミを購入しなければならなくなる。ビール三杯目はやめて、水割りにしようか、などの考えも生まれてくる。

そこで、「水割りおよびポテトチップ」と決心して、とりあえず水割り屋を待ちうけるのだが、不思議なことに、決心したとたん、水割り屋は来なくなる。

ついさっきまで、うるさいほど「水割り、いかがァすかァ」とウロウロしていたのに、決心したとたん、どういうわけか寄りつかなくなる。

では、ポテトチップのほうだけでも買っとこうとおもうのだが、これが見当たらない。決心するちょっと前まで、「ポテトチップ、いかがァすかァ」と身辺をウロウロし、「いまは、ポテトチップどころじゃねーんだよ」と、うるさく思っていたのに、決心したとたんどこへ消えたか影も形もない。

この現象は、列車とか映画館の中でも起きる。

列車の中で、うるさく行き交っていた売り子が、たとえば「そろそろビールでも買って飲むか」と決心したとたん、パッタリ来なくなる。

映画館では、「映画見ながらアイスクリーム食うなんて、ダセーんだよ」などと思っているうちはやたらに売りにくるが「しかし食いたくなったナ」と思ったとたんパッタリ来なくなる。

これは、社会科学的および心理学的には、「決めるとパッタリ現象」、あるいは「決めパタの法則」と呼ばれ、目下、鋭意、原因究明中と伝え聞くが、その結果が待たれる今日このごろである。