(巻三十五)第三の人生の座や春炬燵(向井良治)

(巻三十五)第三の人生の座や春炬燵(向井良治)

 

11月2日水曜日

朝となりXマイナス1でありがたし。

秋好日。細君はアリオのヨーカ堂へ衣類を買いに出かけた。ヨーカ堂のセーターで十分満足だと言っている。夫婦して物欲は少ないのではないだろうか?細君も本を読み返し、ラジオを聞いている。

書き留めた警句の中に、

That man is the richest whose pleasures are the cheapest. Thoreau

というのがあった。

ものひとつ瓢はかるきわが世哉(芭蕉)

細君、昼頃私には餡パンを買って帰宅。

昼飯は細君の帰宅前に、例によって赤飯パックと即席麺で済ませた。今日は味噌ラーメン。昼寝はしなかったが、机の椅子でコクりとしたようだ。

散歩の前に、ふと、『古希七十句増補版』なんぞをこのブログとLinkedInに載せてしまった。9月上旬にLinkedInに載せた『古希七十句』には500を超える接触があり、11月に入ってからも結構接触があるのでついその気になってしまった。

徒し世のお蔭参りか南瓜祭

柿仰ぐ色鮮やかで喰えぬ奴

秋深し蜜柑の甘くなりにけり

天高く輪乗りの小馬の目の回る

生き方を猫に教わる秋日和

BBC耳順はぬ夜長かな

やや足りず二割負担で古希の秋

世につれて的屋老ひけり秋祭り

が増補。

散歩は図書館から都住3へ、そこから都住2、ファミマで珈琲を喫して帰宅。帰宅したら、洗濯だと言われ、夜濯ぎではないが、夕濯ぎを致した。

「明日も好天なので、毛布カバー他を洗濯するの。だから前倒し!」との御沙汰。

願い事-涅槃寂滅。涅槃寂静が正しいようですが、あたしゃ「滅」にしております。

血圧が下がらない。140-90だ。心の中がfight, flight, freezeの状態なのだろう。それはそれで仕方がない。

四法印の意味を再確認していたら、四諦と言う言葉が出てきた。調べると、苦諦(くたい)、集諦(じったい)、滅諦(めったい)、道諦(どうたい)とのこと。諦はあきらめることではなく、明らかにすることなのだろう。が、“あきらめる”と読んでもいいのかな?

宗教としての仏教は関心の外ですが、ブッダのお考えについてはうかがいたいと願っています。難しくなく、短い、お話を読みたいと思っていますので御教示ください。

座る余地まだ涅槃図の中にあり(平畑静塔)

 

「「人は死ねば死にっきり」という仏教的ニヒリズム - 小浜逸郎」癒しとしての死の哲学 から

 

先に述べたように、プラトニズムにおいては、現世の価値のかわりに現世を否定・超越したもう一つ別の生の価値を置き換えることで、死の否定性そのものを逆説的に生への執着(それは精神化されているが)に結びつけるという離れ業がおこなわれていた。しかし、仏教には寂滅の境地へ向かってのひたすらな修練の志向が見られるばかりである。それは、魂の価値をいわず、むしろ逆に、肉体が有から無へと散じていくありさまに魂をも寄り添わせ、そのことによって、魂のざわめき自体を殺せといっているとしか思えない。

ということはどういうことであろうか。ここで暗黙のうちに強調されているのは、結局次のようなことだ。

人(の肉体と魂)は、死ねばこのようになり、これで一巻の終わり、そしてそれ以外のなにものでもない。何らかの「生きのびる道」などを観念の力で構想することはむなしいことである。

こうして、仏教的ニヒリズムは「人は死ねば死にっきり」という徹底したリアリズムのうちに人を釘づけにしてしまう。それがすべての仏教のねらいであったとはいうまい。ただもし煩悩の寂滅をラディカルに説くならば、結果的にそういうことになるしかないということだけはたしかである。来世などという観念自体、本当は無用と観ぜられるべきものだ。仏教は輪廻転生を説くとよく言われるが、輪廻転生とはいまだ煩悩を捨て切れない魂が迷いつづけている状態であって、寂滅涅槃の境地からみれば、速やかに離脱すべき否定的な状態以外の何者でもない。

この徹底性は、実を言えば、日本の伝統的な信仰のあり方に必ずしも適合するわけではない。先に加地伸行が説いていたように、日本(あるいは東北アジア)では、儒教的な祖霊信仰が一般的で、そこでは魂の常住がむしろ信じられてきたからだ。しかしそれはプラトニズムやキリスト教のような形而上的な一般化を経たものではなく、もっと肉感的で、具体的なたたずまいを備えている。それは、たえずその辺をさまよっており、特定の人が呼べばいつでもその特定の人のもとに帰ってくる、名前のある魂である。

すべての絆を断ち切ることを説く仏教的死生観は、本当は、伝統的な日本人の意識には合っていないのではないかと思う。

だがおそらくすべての外来宗教が日本人の伝統的な意識に触れて妥協と変質を余儀なくされたように、仏教的死生観もあいまい化を免れず、その本来の主張どおりに定着・浸透することはありえなかったのだ。

もっとも、ひょっとすると、都市社会的な個人主義が発達し、係累の価値が希薄化した現代の日本においてこそ、かえってそれは大きな共感をあたえる要素をもっているいるのかもしれない。余談になるが、仏教の原点に帰ることを説いていたオウム真理教が現代の多くのラディカルな若者の心をとらえたのも、そうした時代的要因が絡んでいるのではなかろうかと思う。

しかし、それが人間の魂に共感を及ぼす範囲もまた、生の意識全体のなかでは、局部的なところにかぎられるというほかはないであろう。なぜならば、実際人々は、ことさらこの世のすべてが不浄に満ちたものだなどと考える必要性を感ずることなく、幸と不幸、安らかさと不安の間を往復しつつ、そこそこ平気な顔をして生きていることが圧倒的に多いからである。