「『うらなり』創作ノート(抜書) - 小林信彦」文春文庫 うらなり から

 

 

「『うらなり』創作ノート(抜書) - 小林信彦」文春文庫 うらなり から

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ぼくが研究書『漱石作品論集成第二巻』(桜楓社)をとりよせたのは、その中の有光隆司氏の「『坊つちやん』の構造-悲劇の方法について」という短い論文を読むためであった。この小論文のことは他の本で知り、興味をひかれたのである。
ごく大ざっぱにまとめれば、有光氏は、『坊っちゃん』という作品の語り手である男は、しばしばいわれるように〈挫折〉も〈敗北〉もしていないと言う。
男の役割は、教頭、古賀、堀田、遠山令嬢(マドンナ)の間の緊迫した状態を、読者の前に提示するだけである。男はことの深い意味を察知していない。男は小説の一行目の〈親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている〉という記述に続いて、明るい喜劇の世界を生きつづける。
一方、男の認識を超えた奥に暗い世界がある。教頭の〈強者の権利〉によって、物語の中心から排除されてゆく二人の人間-一人は古賀であり、一人は堀田である。わかり易くいえば、赤シャツ対うらなりと山嵐の対決のドラマであり、うらなりと堀田は〈挫折〉してゆく。
そして、有光氏は次のように結論づける。
〈『坊つちやん』という作品は、その深部において悲劇として読まれることを望んでいるのである。……あるいは『坊つちやん』とは、喜劇を演じる男の向こう側に、悲劇役者たちの世界が透けてみえる、そのような仕掛けを内包した作品なのだ、といってもよかろう。〉
この奥深い小論文が書かれたのは一九八二年であり、七〇年代から八〇年代にかけての『坊っちゃん』評価の一頂点といえるかも知れない。
それまでの『坊っちゃん』は、唐木順三氏の「調子にのった漱石の、出まかせの余技にすぎない」という有名な否定論(昭和七年)と、「もし『猫』と『坊つちやん』を漱石の代表作とする意見があれば、私はそれに賛成である」(昭和四十一年)という大岡昇平氏の讃辞に二分されている。
大岡氏はさらに「……のびのびとしたいい文章である。といって、決して一本調子ではなく、漱石という複雑な人格を反映して、屈折にみちているのだが、作者の即興の潮に乗って、渋滞のかげはない。こういう多彩で流動的な文章を、その後漱石は書かなかった。また後にも先にも、日本人のだれも書かなかった」と述べている。
大岡氏が読んだのは〈小学六年〉の時であり、はからずも、ぼくと同じである。ただし、ぼくは大岡氏のように〈すぐ二、三度繰返し読んだが……〉という風にはならなかった。全体として、痛快とはいいきれぬ不満があり、のちに読みかえすと、これは坊っちゃん山嵐の敗北の物語ではないのかと思えた。そう考えたところで、もう一人の物言わぬ敗北者、うらなりが気にかかる。
改めて読んでみると、いよいよ〈うらなり君〉の存在がきにかかる。坊っちゃん山嵐は悪玉二人に制裁を加えて〈不浄な地〉を離れたとしても、うらなりは延岡へ行ったきりで、その後の消息はわからない。『坊っちゃん』が坪内逍遙二葉亭四迷に始まる日本の近代文学の主流に異[ことな]るところに成立した小説と考えても、うらなりの消え方は納得がいかない。
物語を作る側としてのぼくは、この物語の構造が、誤解をおそれずにいえば、必ずしも、坊っちゃんという人物(観察者プラス参加者)を主人公としないことに気づいていた。有光氏の小論文を読んだのは、自分に自信をつけるためであった。ぼくが書こうとしている〈うらなり=語り手〉の物語では、坊っちゃんが脇役にまわるからである。それが可能かどうか、これまでの研究に目を通しておく必要があったのだ。

 


シェークスピアの『ハムレット』を裏返しにした〈不条理劇〉に、トム・ストッパードの『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』がある。白水社版『今日の英米演劇5』を書庫で見ると、この戯曲の邦訳が一九六八年十月に出版された時、ぼくはすぐに読んでいる。
ハムレット』の観客の側からすれば、ほんの端役にすぎないローゼンクランツとギルデンスターンを主役にしたものだが、その着想以外はすべて忘れてしまった。
とはいえ、頭のどこかに引っかかっていたのは確かで、こね芝居を古田新太が関西弁で演じたのを観ようと思って、結局、観ずに終った。また、映画化され(一九九〇年)。ゲイリー・オールドマンがローゼンクランツ、ティム・ロスがギルデンスターンを演じたイギリス映画のビデオテープを買ったが、退屈で、途中で眠ってしまった。やはり、これは舞台で観るべきものなのだろう。

 


先のように、ぼくが〈裏返し〉を考えていたとしても、漱石の『坊っちゃん』そのものは、やはり傑作である。準備のために、二十回ぐらい読みかえしたと思うが、漱石はこの〈喜劇の底にある悲劇〉を充分に意識して書いている。
例えば、〈おれ=坊っちゃん〉が田舎に赴任することが決まり、〈下女〉の清[きよ]をたずねてゆくと、
〈……北向の三畳に風邪を引いて寝ていた。〉
と描写されている。風邪をひいて、狭い部屋(三畳の形を考えてみるがいい)に北枕で寝ている老女に不吉なものを感じなかったら、その読者はどうかしている。もちろん、小学生ではわからないが、中学生以上だったら、さきゆき、清の身に異変がおこることを、うっすらと感じるだろう。
清は停車場まで送りにくるのだが、〈おれ〉が、
〈……窓から首を出して、振り向いたら、やっぱり立っていた。何だか大変小さく見えた。〉
とあり、ここで第一章が終る。清の〈小さく見え〉る姿が〈おれ〉の不安に重なってくる。
どう見ても、これは〈痛快な青春小説〉ではない。といって、清が何かの(又は誰かの)シンボルではないか、などと考える必要もない。物語はいっきに進んでゆく。大岡氏が〈文芸作品として最高点〉と念を押すように。
一九七〇年代以降の〈研究〉は、六〇年代以降のテーマ=〈暗い漱石〉を掘り下げる路線でおこなわれている。だから、中には、首をかしげるような研究もある。仮りに『坊っちゃん』を悲劇と見るならば、小説を書き始めて一年少ししか経っていない漱石が、なぜ、突然、そういう小説を書いたのかを考えてみる必要がある。われわれが写真で見る漱石は、中年の終りか初老のようであるが、『坊っちゃん』が「ホトトギス」に発表された明治三十九年(一九〇六年)、漱石はまだ三十九歳の若さなのだ。
しかも、三年ほど前から、イギリス帰りの学者として、第一高等学校の講師と東京帝国大学英文科講師を兼任し、神経衰弱を再発し、明治大学講師も兼任している。誰でも講師がつとまる現代とちがって、漱石は世間的にとてもエラいのである。
その〈エラい人〉が明治三十七年十二月、高浜虚子にすすめられて文章会で『猫伝』すなわち『吾輩は猫である』を発表する。翌三十八年には『吾輩は猫である』を長篇化を考えながら「ホトトギス」に書き、『倫敦塔』『カーライル博物館』等の初期作品を発表している。
驚くべきことは、『吾輩は猫である』を連載中の「ホトトギス」に、途中で『坊っちゃん』を発表している。「ホトトギス」の明治三十九年四月号には、『坊っちゃん』と『吾輩は猫である』の第十回が同時に載っているのである。 

坊っちゃん』は変則的な原稿用紙に書かれたまま残っているが、四百字詰原稿用紙に直せば二百十五枚である。(『新潮日本文学アルバム夏目漱石』による)。すでに見たように、人物やプロットが確然とした作品を、他の作品の合間に書くというのは大変な作業である。漱石を『坊っちゃん』執筆に向かわせた原因は、さまざま推理されているが、なによりも作者が乗っていなければ書けない作品であることは間違いない。
この二百十五枚が書かれた期間は、次のように推定されている。
小宮豊隆説 一週間
江藤淳説  二週間内外
大岡昇平説 二十日足らず
これらの中で、小説の完成を三月二十三日前後と見た小宮豊隆説は、漱石の次の手紙によって否定される。
三月二十三日に書かれた高浜清(虚子)あての手紙は次の通り-。
〈拝啓新作小説(注『坊っちゃん』)存外長いものになり、事件が段々発展只今百〇九枚の所です。もう山を二つ三つかけば千秋楽になります。趣味の遺伝で時間がなくて急ぎすぎたから今度はゆるゆるやる積です。もしうまく自然に大尾に至れば名作然らずんば失敗ここが肝心の急所ですからしばらく待つて頂戴出来次第電話をかけます。松山だか何だか分らない言葉が多いので閉口、どうぞ一読の上御修正を願いたいものですが御ひまはないでせうか 艸々

虚子先生〉
文中の『趣味の遺伝』は「帝国文学」三十九年一月号に発表された短篇だが、〈ゆるゆるやる積[つもり]〉と言いながら『坊っちゃん』はすさまじい早さで書かれた。〈百〇九枚〉目は現在の原稿用紙に直すと、うらなりの送別会のあたりらしいが、〈名作然らずんば失敗〉と手紙に書きながらも、この時の漱石が成功を確信していたことが、ぼくには伝わってくる。〈しばらく待ってチョーダイ〉など、浮かれているようにも見える。
この手紙をそれ以前の手紙(三月十七日、瀧田哲太郎あて)と照し合わせて、江藤淳氏は〈二週間内外〉と見ているが、これは大岡氏の〈二十日足らず〉と、そう大きくは変らない。
今度、『坊っちゃん』を丹念に読んで、同じ人間を〈くん〉で呼んだり〈さん〉で呼んだりするケアレスミスがあるのに気づいたが、この時代は、校正係はいなかったのだろうか。あるいは「ホトトギス」にいなかったのか。漱石がエラいので、単行本化する時に春陽堂が遠慮したのか。もっとも、この小説は〈語り手〉の口調の面白さのおかげで、ふつうに読む時には、そんなことは考えもしないのだ。名人三代目柳家小さんをはじめとする江戸落語で身についた江戸言葉の警句の数々。そうした〈語り〉によって、悲劇さえ時として喜劇になり、全体が〈あたたかさ(辰野隆[ゆたか]氏の表現)〉に包まれる。慶応三年生れと英国帰りという結びつきの〈芸術家は滅多に出るものじゃない〉と、『三四郎』の与次郎の表現を真似して述べておきたい。
三代目小さんというよりも、正確には、江戸文化の名残り、残光-『坊っちゃん』を生き生きした文学にしているのは、そういう伝統であり、有光氏の指摘する〈ことの深い意味を察知しない〉男が、あるいはそれゆえにこそ〈語り手〉として必要なのである。