「『うらなり-小林信彦』の解説 - 夏目房之介」本デアル から

 

「『うらなり-小林信彦』の解説 - 夏目房之介」本デアル から

『孫が読む漱石』という本を書き、その中で『坊っちゃん』について〈表層的には痛快かもしれないが、じつは暗い話の気がするなあ〉と書いた。
若い頃はもちろん、その後何度か読み返したが、別段そんな印象を受けたことはなかった。初めて、漱石を分析の対象として読んだら、これまで感じないことを色々と感じたのである。坊っちゃんの景気のいい江戸弁でごまかされる、事件自体は、教頭一派の陰湿な策謀でうらなりは他の地方に飛ばされ、抵抗する正義漢の山嵐も結局何もできずに敗北してゆく。じつにすっきりしない話なのである。
小林信彦も同じように感じていたらしい。突如対談相手に呼ばれ、『坊っちゃん』という作品に感じた違和感について話し合った。昔から好きで小林の本を読んでいた僕は、非常に緊張した。それはともかく、小林がうらなりの目から見た同じ事件を書いた小説が『うらなり』だ。東京で三十年後に山嵐と再会するうらなりの一人称で、『坊っちゃん』本編に書かれていない「後日譚」も書かれる。マドンナに再会するうらなりの話なんかも面白い。
小林は、うらなりのような人物には、坊っちゃんは理解できなかったろうという。味方をしてくれるらしいとわかっても、じつは迷惑なだけだったろう、と。
(なぜ私の身を思ってくれるのか、理解しがたいものがあった。堀田[山嵐]にいろいろ聞かされたとしても、この好意はふつうではない。)
小説のこの部分を読んで、僕もハタと考え込んでしまった。江戸っ子の坊っちゃんが、うらなりのようなウジウジした奴をなぜ好きになったのか?
山嵐もまた、自分と教頭の争いに(自分が主人公みたいに思っている)坊っちゃんがしゃしゃり出て、敵に卵なんかぶつけるから「正義」が「喜劇」になってしまったと、三十年後にグチっている。
『うらなり』を読むと、もう一度『坊っちゃん』を読んでみたくなる。そして、同じ事柄が人によって違う様相であらわれるしかない人間関係のありようを思う。
この相対的な人間のありようは、少し違う角度から漱石ののっぴきならない主題となり、陰鬱な胃の痛くなる後年の作品群につながる。やがて未完の『明暗』にいたり、ようやく完全に均等な相対的観点を獲得し、漱石は世を去るのである。
坊っちゃん』のように語り尽くされたかと思われる作品でも、まだこうして『喜劇』性の裏を垣間見ることが可能だ。それは今になって「本当のこと」がわかったのではない。ただ今の時代に可能になった観点が、同じ作品に新しい姿を見てとっているだけなのだ。