(巻三十五)負越しの土俵勤むも後二番(高澤良一)

(巻三十五)負越しの土俵勤むも後二番(高澤良一)

12月10日土曜日

10時半に寝て5時過ぎに目覚めてトイレに行った。まずまずの睡眠を得られてヨカッタ、ヨカッタ!

細君は生協に行き、私も自分の朝食用品を買いに行った。風もなく温かい。

昼飯食って一息入れて、散歩に出かけた。

図書館で返却して、稲荷のコンちゃんに詣でて、それから昨日入った喜多方ラーメンのちょい飲みへ歩いた。土日は11時からちょい飲みだから時間的には問題ない。味付け卵と何か餃子以外のつまみにしようと思ったが焼豚もコロッケもどうもだなという写真なので結局餃子した。昨日2杯飲んで結構効いてしまったので1杯にしておいた。散歩のお茶がわりだからそのくらいがよいのだ。お勘定は780円也。

帰りも歩いて、近所のウエルシアに寄ってトレペー、細君のシャンプー、コーヒー・クリームを買う。コーヒー・クリームは料理用だ。

猫たちは、コンちゃんの他にサンちゃんとクロちゃん。スナックを食べたのはクロちゃんだけであとの2匹は腹一杯といった態度だった。

借りてきたのが新書なので硬い。御高説を御高説として述べられちゃうと味がない。結局残したのは『精神科医は腹の底で何を考えているか-春日武彦(幻冬舎新書)』だけ。この書の第一章の頭で中島らも氏の処方箋についてのコメントが出てきた。

願い事-涅槃寂滅です。

タモリ氏の弔辞を読んだので、お寺の掲示板の「これでいいのだ」を読み返してみた。「これでいいのだ」は深い。

バカボン=お釈迦さま説 - 江田智昭」お寺の掲示板 から

半世紀前に「週刊少年マガジン」で連載が始まり、現在までに五回もアニメ化された『天才バカボン』は、赤塚不二夫ギャグ漫画の金字塔です。

このバカボンという名前は「薄伽梵[ばぎゃぼん]」、つまりは仏に由来しているとも言われています。実は仏教を意識した漫画なのです。

「おでかけですか」と声をかけてくれるレレレのおじさんは、チューラパンタカ=周利槃特[しゅうはんどく]が元になっていると言われています。お釈迦さまは教えを何も覚えられない彼にほうきを渡し、毎日僧院を綺麗にしなさいと説きました。それ以来、彼は言いつけを忠実に守り、毎日掃除に専念し、最期には自分自身の因縁も掃き清め、さとりに至ったと言われています。

お釈迦さまは優秀な弟子もそうでない弟子も、分け隔てなく拒否せずに受け入れました。バカボンのパパの決めゼリフ「これでいいのだ」という言葉はお釈迦さまの姿勢にも沿っています。これは「すべてをありのままに受け入れる」さとりの境地をある意味示しているのです。

このバカボンを描いた赤塚不二夫さんに見出されて芸能界に入ったのがタモリさんです。

非常に親交が深かったため、赤塚さんの葬儀では弔辞を述べましたが、タモリさんは赤塚さんの生き方を以下のように語っています。

あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎さん)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺の時、たこちゃんの額をぴしゃりと叩いて、「この野郎、逝きやがった」と、また高笑いしながら大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を無化していったのです。

これらの言葉から赤塚さんの生きざまが鮮明に浮かびあがってきます。そして、その直後に「これでいいのだ」に表される境地について言及しています。

あなたの考えはすべての出来事、存在をあるがままに前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は、重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また、時間は前後関係を断ち放たれて、その時、その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一語で言い表しています、すなわち、「これでいいのだ」と。

さすがタモリさん。「これでいいのだ」という境地について、見事に説明しています。すべての事態をあるがままに受け入れることによって、「過去」や「未来」を離れた「現在」に意識がフォーカスされます。

そのことによって、いまの瞬間が輝きを帯び、過去や未来に起因する無駄な悩みがなくなって、目の前にある幸せを強く感じられるようになるのです。

「これでいいのだ」-これが天才漫画家・赤塚不二夫さんの人生を貫く最も重要な価値観だったのでしょう。