「弔辞 赤塚不二夫へ - タモリ」文春新書 弔辞 劇的な人生を送る言葉 から

 

「弔辞 赤塚不二夫へ - タモリ」文春新書 弔辞 劇的な人生を送る言葉 から

私もあなたの作品の一つです

あかつかふじお 昭和十年、満州生まれ。『天才バカボン』をはじめ、不朽のギャグマンガを世に残した。平成二十年八月二日死去。享年七十二。
昭和三十一年、貸本マンガ『嵐をこえて』で漫画家デビュー。石ノ森章太郎藤子不二雄らとトキワ荘に暮らす。『ひみつのアッコちゃん』(「りぼん」)『おそ松くん』(「週刊少年サンデー」)の連載で一躍、人気漫画家に。『もーれつア太郎』含め、代表作はテレビアニメ化された。「これでいいのだ」が決め台詞のバカボンのパパは、実の父がモデルだったという。晩年はアルコール依存症食道がんに冒され、入退院を繰り返した。福岡から上京したばかりのタモリの才能を見抜き、交流は三十年余におよんだ。

八月の二日に、あなたの訃報に接しました。六年間の長きにわたる闘病生活の中で、ほんのわずかではありますが回復に向かっていたのに、本当に残念です。われわれの世代は、赤塚先生の作品に影響された第一世代といっていいでしょう。あなたの今までになかった作品や、その特異なキャラクターは、私達世代に強烈に受け入れられました。
十代の終わりから、われわれの青春は赤塚不二夫一色でした。何年か過ぎ、私がお笑いの世界を目指して九州から上京して、歌舞伎町の裏の小さなバーでライヴみたいなことをやっていたときに、あなたは突然私の眼前に現れました。その時のことは、今でもはっきり覚えています。赤塚不二夫がきた。あれが赤塚不二夫だ。私を見ている。この突然の出来事で、重大なことに私はあがることすらできませんでした。
終わって私のところにやってきたあなたは「君は面白い。お笑いの世界に入れ。八月の終わりに僕の番組があるからそれに出ろ。それまでは住む所がないから、私のマンションにいろ」と、こう言いました。自分の人生にも、他人の人生にも、影響を及ぼすような大きな決断を、この人はこの場でしたのです。それにも度肝を抜かれました。それから長い付き合いが始まりました。
しばらくは毎日新宿のひとみ寿司というところで夕方に集まっては、深夜までどんちゃん騒ぎをし、いろんなネタを作りながら、あなたに教えを受けました。いろんなことを語ってくれました。お笑いのこと、映画のこと、絵画のこと、ほかのこともいろいろとあなたに学びました。あなたが私に言ってくれたことは、いまだに私にとって金言として心の中に残っています。そして、仕事に生かしております。
赤塚先生は本当にやさしい方です。シャイな方です。麻雀をするときも、相手の振込みで上がると相手の機嫌を悪くするのを恐れて、ツモでしか上がりませんでした。あなたが麻雀で勝ったところを見たこてがありません。その裏には強烈な反骨精神もありました。あなたはすべての人を快く受け入れました。そのためにだまされたことも数々あります。金銭的にも大きな打撃を受けたこともあります。しかしあなたから、後悔の言葉や、相手を恨む言葉を聞いたことがありません。
あなたは私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せるあの底抜けに無邪気な笑顔ははるか年下の弟のようでもありました。あなたは生活すべてがギャグでした。たこちゃん(たこ八郎)の葬儀の時に、大きく笑いながらも目からはぼろぼろと涙がこぼれ落ち、出棺のときたこちゃんの額をぴしゃりと叩いては「このやろう、逝きやがった」とまた高笑いしながら、大きな涙を流していました。あなたはギャグによって物事を動かしていったのです。
あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい意味の世界から解放され、軽やかになり、また時間は前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは、見事に一言で言い表しています。すなわち、「これでいいのだ」と。
今、二人で過ごしたいろんな出来事が、場面が思い浮かんでいます。軽井沢で過ごした何度かの正月、伊豆での正月、そして海外へのあの珍道中。どれもが、本当にこんな楽しいことがあっていいのかと思うばかりの素晴らしい時間でした。最後になったのが、京都五山送り火です。あの時のあなたの柔和な笑顔は、お互いの労をねぎらっているようで、一生忘れることができません。
あなたは今、この会場のどこか片隅に、ちょっと高いところからあぐらをかいて、肘をつき、にこにこと眺めていることでしょう。そして私に「お前もお笑いやっているなら、弔辞で笑わせてみろ」と言っているに違いありません。あなたにとって、死もひとつのギャグなのかもしれません。私は人生で初めて読む弔辞が、あなたへのものとは夢想だにしてませんでした。
私はあなたに生前お世話になりながら、一言もお礼を言ったことがありません。それは肉親以上の関係であるあなたとの間に、お礼を言う時に漂う他人行儀な雰囲気がたまらなかったのです。あなたも同じ考えだということを、他人を通じて知りました。しかし、今お礼を言わさせていただきます。赤塚先生、本当にお世話になりました。ありがとうございました。私も、あなたの数多くの作品の一つです。合掌。
平成ニ〇年八月七日
森田一義
(平成ニ〇年八月七日東京・宝仙寺にて)