2/2「チャップリンからキートンの世界に向けて - 赤塚不二夫」日本の名随筆60 愚 から

2/2「チャップリンからキートンの世界に向けて - 赤塚不二夫」日本の名随筆60 愚 から

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これに対して、キートンはどうだろう。

彼の行方の安心などする観客は一人もいない。彼の行動には、常に不安がつきまとい、あるときは不条理な恐怖にさえ巻き込んでしまうのだ。
若くて不安定な時代、どんな作品をかいていいのかも分からなかった時に、ぼくがキートンを拒否していた感情が、今になってみればよく分かる。
自分の作品がすべり出し、自由に動かせるようになってくると、ぼくはキートンの素晴らしさに酔えるようになった。彼の代表作『セブン・チャンス』は、何百人もの花嫁希望者がキートンめがけて殺到するという設定そのものがもう悪夢だが、この一作でキートンはいわゆるドタバタ映画の追跡劇という単純さを完全に超えてしまっている。
さらに、西部劇にでてくるような荒野を一人疾走するキートンの姿は、それだけで美に昇華しているといってもいいだろう。キートンラグビー場へ逃げこんでいくと、追ってきた花嫁の大群が、選手全員をあっという間に踏みつぶしてしまう場面があるが、これは空中からのロングショットでとらえていて、キートンの顔は姿を消してしまっている。
ニュース映画を見せられているような気分である。こうした新しさは『ロンゲストヤード』『スラップショット』といった最近の映画でさえ超えることが出来ない。
最大の見せ場は、巨大な落石群と花嫁群にはさみうちされたキートンが、結局、花嫁から逃げて、巨石の間を必死でよけながら山を登っていく場面である。
ここでキートンはきっぱり、演技より体技にウエイトをかけて活躍している。ぼくはその動きを追っているうちに、不思議な酔いのようなものを覚えてしまったほどである。
テレビ喜劇な名ディレクター - 沢田隆治は、キートンチャップリンの走る芸を比較して、チャップリンの場合は警官に追われて走ってきて辻を曲がる時、片足でトントン、スーッと曲がる、キートンの場合はパーッと走ってきて、パッと止まると語っているが、この止まってしまう時のタイミングの良さと、ショックがなんともいえぬ快感なのだ。
天才バカボン』をかきつつ『レッツラ・ゴン』へ移っていくころ、そういったことを感じていたわけである。
ナンセンスからシュールへ - 。これがぼくの作品のひとつの課題でもあったわけだ。ぼく自身の体質も徐々に変化してきつつあったのだろう。
しかし、『レッツラ・ゴン』のシュールな作法は、児童漫画としての理解の壁にぶつかることになった。
何が何だか分からないではないか - ただワルノリをしているように見える......と。たしかにそうかもしれない。
しかし、何が何だか分からないけれど面白い - というものを、ぼくは描いてみたかったのである。
理由が分かってからおかしいという、いわゆる考え落ち式で物語を進めるのではなくて、状況がどんどん変化していき、読者をおいてけぼりにしてしまうようなスピードの作品はかけないだろうか?ということまで空想していたのだ。
読者を忘れてしまうことは、作品をかく者にとってはひとつの賭けである。作品についてきてくれなくなった時、今度は逆に、作者は読者から捨てられてしまうのだから......。
そんな自戒が、この数年間、ぼくの作品に漂っていたような気がする。しかし、キートンのように、あれよあれよという間に、スクリーンを駆け抜けてしまう作品をどうしてもかいてみたいのだ。
一度中断していたキートンのシリーズが、再びはじめられている。ぼくの方も、そろそろもう一度、“ニュー・レッツラ・ゴン”の世界を目指してもいい時期なのではないかと思っているのだ。