「飲酒自殺の手引き - 中島らも」酒呑みに与ふる書 から

 

「飲酒自殺の手引き - 中島らも」酒呑みに与ふる書 から

パイナップルを肴に飲んで大酔した修学旅行の夜から、ついにアル中とアルコール性肝炎でぶっ倒れた去年の暮れまで、思えば十八年間というもの僕は酒を飲み続けていたことになる。それも、お酒を食事の友として楽しむ、というような平和な酒飲みではなくて、とにかく早く酔っ払って酒の海に土左衛門になって浮いてしまいたい、といったタイプの現実逃避型のドランカーだった。酒の海に浮く、というのはあながち比喩のみであるとは言い切れない。十八年というと六千五百七十日、うるう年を入れて六千五百七十四日。一日に、少なめに見積もっても日本酒わ五合飲んだとすると、全部で三千二百八十七升、五千九百二十九・四リットル飲んだことになる。
酒の比重を一・〇としても約6トンである。これは縦三メートル、横幅ニメートル、深さ一メートルの水槽一杯分に相当する量だ。プールとまではいかないが、銭湯の浴槽くらいはある。おぼれて死ぬには十分すぎるくらいである。
酒を飲み始めた動機というのは、単純に大人のまねがしたかった、だけだった。そのうちに「酔う」ということがわかってくると、それが自分の精神の欠落した部分にあつらえたようにぴったりとはまり込んで、空無のところを埋めてくれることに気づいたのだ。十代の僕は一種狂暴なほどに自分自身を憎んでいた。そしてそれ以上に、自分がその一隅を占めているところの「世界」そのものを憎み、呪っていた。世界は醜悪で愚かで腐臭を放っていて、それは僕の存在とうりふたつだった。自分もその腐った体で抱き合ったままで「ぶっつぶれてしまえ」というのが、僕にできる唯一の意思表示であり願望であった。酒の酔いは、そういう破滅的な気分によくフィットした。泥酔してぶっ倒れる瞬間というのは、自分と世界にとっての大破滅のミニチュアであり、夜ごとに訪れる小さな「ビッグ・バン」だった。
そういうわけで、僕は毎日、必ず泥酔するまで飲んだ。僕はこれを「緩慢な死」および「予行演習」と名づけていた。死と破壊への願望が、心理学的には「タナトス」と呼ばれているのは知っていたが、そのタナトスの顕在化方法としての飲酒は、痛くもないし逆に気持ちはいいしイカ刺しはうまいし、で臆病者の僕にはまさにうってつけのやり方だったのである。
困ったことは、その世界と自分への呪詛が十代を過ぎても二十代を過ぎても、いつまで待っても解けてくれないことだった。