「シャカリキ-あとがきにかえて - 玄侑宗久」新潮新書釈迦に説法から

 

「シャカリキ-あとがきにかえて - 玄侑宗久新潮新書釈迦に説法から

「自」然の「分」身が「自分」だということは、あちこちで書いたような気がする。だとすれば、自然を理解することがとりもなおさず自分を解ることに繋がるわけだが、これがどうにも難しい。
難しい理由を考えてみると、自然も自分も、解ったり理解するという方法に似合わない在り方をしているからだと気づく。それは仏教用語で云えば「諸行無常」ということだし、道教的に云えば太極図に象徴されるように陰陽が渦巻き、エネルギーを産みだす現場が、どんなに小さなスケールにおいても存在するということだ。つまり自然も我々も、その本質は流動しつづける命そのものであり、理解しようと思って手を近づけても指先から漏れでて掴めない。それはまるで素粒子が、どんな倍率の顕微鏡でも光を当てると動いてしまうから見えないことに似ている。
そのことを、『般若経』は「空」と表現した。
しかし我々人間の脳は、感じることはできても理解できない自然に対し、その全体を分断し、流れを掬い上げたりストップさせても、なんとか理解したいと思うらしい。自然のままではないのだと知りつつも、標本みたいに張りつけ、殆んど流動しなくなった自然の残骸を手がかりに、自然を理解しようとしてきた。その手がかりである自然の残骸のことを「色」と呼ぶのである。
つまり「色即是空」とは、我々が認識したあらゆる現象としての「色」が、残骸にすぎないという教えなのだ。むろんその対象は、自然でもあるし自分でもある。自分のなかに湧き起こる感情や判断さえ、すでに残骸だというのである。
ならばどうして我々はそんな残骸をつかむことを止めないのか。
それはおそらく、幼児の頃にもっていた自然との一体化能力を失い、その代わりに「理解できる」脳機能を授かってしまったからだ。しかし理解というのは、まるで自然という流動体に刃物を向けて切り取ろうとするようなものだ。刃物に付着した滴から流れそのものを推測するように無力なのだ。だから我々は、トンチンカンな考えばかりもつのだし、いわゆる煩悩というものも、主にこの自然を誤解することから起こる。
自然は解釈を必要としていないし、本来それは不可能なことだ。そうなると自分もそうだ、という理屈になるが、だからといってそれが止められないのが人間なのだから仕方がない。
自然を写そうとした幾何学はユーグリッドのモデルからフラクタル幾何学に進んだし、ニュートン力学では説明できないミクロ世界については量子力学が、マクロ世界については相対性理論がより自然に近い描写を可能にした。
自分という自然についてもそうだろう。簡単に図式化することはできないが、たとえば我々の心について云うなら、フロイトの考えた潜在意識では説明できないもっと奥深い心理を描写するためにユング集合的無意識を称えたのだし、ユング派のミンデルなどは昏睡状態にも存在する自分というものにアプローチを続けている。
しかし肝腎なのは、自然に近い描写を実現しようとしてなされるそうした知の推進も、結局はどごまで行っても流動そのものを写すことはできないということだ。いやむしろ、分析や理解が自然に近づいてきただけに、自分が自然に近づいてきたと錯覚されるのが怖い。
初めにも申し上げたが、自然は理解という方法では到底つかめない在り方をしているわけだから、分析や理解では初めから近づきようがないのである。
ならばどうすればいいのか、ということになるが、とても参考になるのが中国の『易』の考え方だ。
陰陽が合してエネルギーを産みだし、絶えざる流動もそこから起こるとさっき申し上げたが、人間の脳機能についても中国人は陰陽を想定しているのである。
陰は動かず、包み込む根源性。陽は動き、枝分かれする力だが、そう言われれば、自ずと我々の理知が枝分かれのほうだという見当はつくだろう。我々は思考を逞[たくま]しくしてどんどん細い枝まで登りつめようとしているのだ。確かに花は枝先に咲く。
しかし根本が充実していなくては枝葉も枯れてしまう。その根本の、吸い上げ、包み込むほうの働きとは何なのか。
それが瞑想であることは間違いない。瞑想こそ自分が自然に戻っていくというやり方だし、そこではあらゆる分析も理解もなされないかわり、自然の全体が直接に感受される。そこで発現する力こそ「慈悲」なのだと思う。
お釈迦さまがシャカリキにおっしゃったのもそのことだった。
宇宙の始まりや人間の死後に関して弟子たちの問いに、無記としてお答えにならなかったのも、そこに理知的な輪郭を与えることがけっして弟子のためにならないと、ご存じだったからだろう。物事の始まりと終わりを想定するのも、じつは理知のクセ。本来、自然という流動しつづける命には、始まりも終わりもないのである。
こうして最後まで本書を読んでくださった皆さんに、私はいったい何ということを申し上げているのだろう。煎じ詰めれば、理知のゴンゲのような新書というものを読むだけでは、ハッピーになれないということではないか。
そう、残念ながら、私は全くそう思うのである。
書を捨てて町へ出よう、と書いた詩人がいたが、私は最後に申し上げたい。
町に出るのもいいけれども、書を捨てることはないけれど、ともかく瞑想しよう。それこそが究極の「釈迦の説法」。釈迦力の内容なのだ。
「釈迦に説法」よりも、はるかに大事なのである。