「禅的安心の作法 - 玄侑宗久」新潮新書 釈迦に説法 から

 

「禅的安心の作法 - 玄侑宗久新潮新書 釈迦に説法 から

世の中に、心配の種は尽きることなく

言葉の字面のせいだろ、安心の反対が不安だし、不安がなくなると安心するような気がしてしまうのだが、果たしてそうだろうか?不安を「心配の種」と言い換えてもいい。心配の種がなくなって安心するという事態は、果たしてあるのだろうか?
たとえば子供が独身で結婚せず、なんとか結婚してほしいと願う親の気持ちは、これはもっともだと思う。しかし所謂「心配性」の親は、相手を捜すという具体的な動きに力を注ぐよりも、出口のない愚痴を繰り返すことが多いような気がする。つまり心配というのが行動の動機としてはたらくのではなく、それ自体が一つの症状の観を呈している。そしてその症状を見取った知人などが、「あんなに親が心配しているんだから」と駄目を押すように責め立てるが、むろんそれが結婚という目標に対して有効にはたらくことなどあり得ない。子供は大抵「そんなに心配している」事情に関係なく、結婚したりしなかったりするのである。
さて結婚したとして、心配性の親は心配することを止めるだろうか?殆んどの場合、まず止めないものだと私は思う。しばらくすると「子供はまだか」と心配しはじめ、子供ができても今度はその子の健康や学校の成績など、心配の種は次々と見いだされていく。心配しようと思えば世の中に心配の種は尽きることなく、幸運にも孫が適齢期ちかくなるまで元気だったりすると、その長寿を嬉しがるよりも、またぞろ孫の結婚の心配をはじめたりする。

安心というのは、どうも心配した挙げ句にその種がなくなることで至る心境ではなさそうである。おそらく体や心の状態が、安心と不安とでは全く違うのではないだろうか?不安から安心への移行は、じつは急激に、突然になされる、というのが禅の考え方である。
禅宗創始者はあの有名な達磨さんだが、インドから最初中国南部の梁の国にやってきた彼は、そこに思いを伝えられる相手を見いだせず、やがて北上して嵩山[すうざん]に入る。ここはもともと道教の聖地だった山で、達磨さんはそこでようやく自分の仏法を伝えられる相手に出逢うのである。
後に二祖と称される慧可[えか]は、しかし初対面のときとても不安だった。「不安で不安で仕方がないのです」と正直に訴え、そして「なんとかしてほしい」と懇願する。達磨さんはそれに対し、「その不安というものを、この場に出してみなさい」と応じる。
「いや、……たった今は、ありません」
「今ないものが、いったいどこにあるというのか」
達磨さんのその言葉で、慧可ははっと気づき、安心を手に入れたという話で、禅門では「達磨安心[だるまあんじん]」と呼び習わされているのだが、お解りだろうか?
少し解りにくいと思うので私なりの解説を加えてみる。
「ずうっと不安だった」と、慧可は自らの心の連続性を疑わずに語ったが、心などというものは実にコロコロと変わり、連続などしてはいない。心一つが宿る時間は一弾指[だんし]とも一刹那とも云われ、いずれも数十分の一秒のことだ。つまり心は一秒間に数十回も変化するというのが仏教の認識なのである。
「ずうっと不安だった」というのは実は「物語」である。人は、変化して止まない纏めようのない心をとり纏めるために「物語」を必要とする。それは語りようのない無常の心を語るための器なのである。
達磨さんの前で冷静になった慧可は、そのことに気づいた。たった今不安がないだけでなく、過去にも不安でなかった時間がたくさんあったことに気づいたのである。食事もしてきたしトイレにも行った。風呂にも入ったし、そういえば恋に落ちたこともあったではないか、と。

「ずうっと不安だった」という物語の器から出してしまえば、時間は自由奔放に動きだし、纏めようもなくなってそのままでは落ち着かない。だから今度は別の物語を探すわけだが、「安心」というのも実は物語なねだ。その器には全く別な体験が過去から集まってきて忽ち一杯になる。そして我々は、今度は安心という物語を、自分自身として味わうことになる。
物語について、解りにくければもう少し卑近な例を話そう。例えば私が芥川賞をいたたいたりすると、そういえば、と、自分でも子供の頃に父親に枕元で読み聞かせてもらった本のことなどを思い出したりするし、また高校生の頃に書いた文章など捜しだして誉める人まで現れる、しかしもし私が、泥棒でもして捕まれば、今度は別な物語に沿った材料が探され、「そういえばあいつは昔から手癖が悪かった」とか「昔、店の前に佇んでいたときの目つきがおかしいと思ったけど、やっぱりそういうことだったのか」と言う人も必ず現れるだろう。
要は、自分のことも他人のことも、人は何らかの一貫性をもった存在として見たいのである。本当は今朝の自分と夕方の自分の一貫性だって怪しいのに、人はそれ以上の一貫性を求める。性格とか人格など、その代表的なものだが、安心や不安というのも、刹那的な感情がそう命名されることで、いかにも確固とした状況として登場することになるのだ。
だとすれば安心と不安とは、選ぶべき二つの物語だ、ということになる。つまり分岐する二股の道であり、不安な人は不安を感じ続け、安心の道を選んだ人はあらゆる出来事をその器に収斂していくことになる。要はどちらの物語を生きるかであり、極端に言えば起こった出来事によってそれが決まるのではないから、たった今安心できなければずっと安心できない、ということになる。つまり、子供が結婚したら安心する、というような条件付きの安心は、本当の安心ではないのだ。

 

安心に導くものは何か

本来、人生に物語などない。じつに纏めようもない生を、我々は生きているのだと思う。しかし物語を持たないと自分の人生の方向性さえ判断できないから、人はただ生きてただ死んでいく人生に、物語を被せるのだろう。大事なのは、それが自分で被せた物語に過ぎないという認識ではないだろうか?
オミクジや占いも、そういう意味ではささやかな物語を提供してくれる。吉をひけば今日一日という捉えどころのない時間を、目出度いことを探す視線で過ごすわけだし、凶をひけば悪いことが起こりはしないかと、用心深く過ごすことになる。けっしてあれは予言として信じたりすべきものではない。今日のラッキーカラーが黄色ですよ、とテレビで占いが言えば、何の根拠もない出逢いにさえ喜びを感じることができるではないか。オミクジも占いも、そうやって余裕をもって、物語として楽しむアイテムなのである。
心には本来なんの方向性もないから、そうした物語を我々は欲するわけだが、物語が主に過去を括るためのものであるのに対し、未来に対してはオミクジや占いばかりでなく、我々は「志」を持ったりもする。これも実は、自由奔放な心を少しばかり不自由にして方向性をもたせるための方法である。
志が行動を決め、行動が習慣を生む。人は感情や理性ではなく、じつはこの習慣によって動くから、習慣はやがてその人の品性を作ることになる。人の運命を開いたり動かしたりするのは、この品性ではないだろうか?だから品性の大本にある志という心の方向性が、巡り巡って安心に導くと言えるのだろう。
安心という物語を選ぶといってもそれは案外難しい。だからまず、一つの物語と承知したうえで、志をもってみては如何だろうか?不思議なことに、人間という生き物は全くの自由の中では
自由を感じないらしい。全くの無音よりも微かな音を聴いたときに静けさを感じるのと同じ理屈である。だから志によって少しだけ不自由を自らに課すと、そのときのほうが自由も安心も感じやすい仕組みになっているらしいのだ。
不安が嫌なら、安心すればいい。いかにも乱暴な禅の考え方を、多少まわりくどく説明してみたのだが、読者諸賢には釈迦に説法だったかもしれない。しかし懲りずに蛇足を加えれば、これも飽くまでも禅の提供する物語にすぎないということである。無責任なようだが、世の中に絶対的に正しいことなどないのだから、この物語についても、「ふうん、面白いね」くらいで読み飛ばすことこそ、あなたの安心の秘訣なのだと思う。他人の意見はその程度に聞いておきましょうね。

 

だから禅を組む

一応禅僧らしく、体のほうからのアプローチも示しておいたほうが佳いかもしれない。どだい坐禅という行為じたい、体の安定を心の安定として積極的に錯覚する文化である。つまり心を直接には相手にしない。あらゆる感情はそれに相応しい器として特定の肉体状況を選ぶから、寝そべって感謝を伝えるのが難しいように、速い呼吸や動いている体には安心という感情も納まりにくい。安心というのは、自覚できないほどの微かな動きを湛えた体が、静かに深く呼吸している状態で初めて宿る感覚だろう。
もっと言えば、心の安定すなわち体の安定のためには、意識が頭にあってはいけない。「えっ、意識を頭以外におく?」、ちょっとこうなると解りにくいかもしれない。何かを考えると、我々の意識は頭に行く。そして考えるということは過去の材料を頭のなかから引っぱり出して操作することだから、大部分の自分は「今」という時間からいなくなってしまうのである。そんな状態に安心は宿らない。だから、感じたり味わったりするのはいいけれど、考えることは止める。そして意識を自分のもっと中心のほうへもっていくのである。
これ以上のことは禅の技術的な話になるから、ここで説明するのは難しいだろう。別に出し惜しみではなく、私の考え方が禅一般のものではないとも思うから、些か躊躇[ためら]われるのである。
ただこれだけは確実だろうと思えるのは、安心は体の脱力と非常に関係が深いということだ。いかにすれば脱力できるかが、安心への近道かもしれない。
志を立て、脱力をめざせば、これでもか、というほどの両面アプローチになるわけだが……、それが面倒くさければやっぱり今のままで安心していただくしかない。私もこれを書き終えてやっと安心したところである。安心したまま、さて次はお葬式の準備にとりかかろう。