「地下世界の税金 - 尾辻克彦」87年版ベスト・エッセイ集から

 

「地下世界の税金 - 尾辻克彦」87年版ベスト・エッセイ集から

知識人というのは世の中にあれこれといるものだけど、マンホールの蓋の知識人といえば林丈二氏である。ほかにはまずいないと思う。どんな大学の名誉教授でも、マンホールの蓋に関してはほとんど無知なのだ。
林氏は日本全国のマンホールの蓋を観察して歩いていて、「マンホールの蓋-日本篇」(サイエンス社)という著書もある。マンホールのことを学ぶ大学ができれば間違いなくその学長になる人である。
その林氏に聞いた話だけど、マンホールの蓋というのは物凄く重いらしい。もちろん重いことは見ただけでもわかるのだけど、人間一人の力では絶対に持ち上げられないという。マンガや小説では逃走する怪盗がマンホールの蓋を開けて地下に潜ったりするが、あれは完全なフィクションだそうだ。中から背中で鉄蓋をこじ開けたりするのを映画で観たが、それもまず絶対にムリだという。
それでも間違いというものはあるもので、過去にマンホールの中に閉じ込められた人がいるのだそうだ。道路工事の人である。工事が終ってみんな路上に出て、鉄蓋を閉め、地下に一人だけ忘れられた。
「怖いねえ」
と、路上観察学会のメンバーは嬉しそうに声を出した。怖い話は面白いのだ。しかしその不幸な人はどうしたのか。
「どうしたと思います?」
と林氏に言われて、みんな考えてしまった。鉄蓋に穴は開いているし地下道は長いから窒息はしない。しかし鉄蓋を外から開けてもらわないかぎり永久に地上には出られない。だから何とか地上の通行人にその存在を知らしめて、しかるべき筋まで通報してもらわなくてはいけない。
「下から鉄蓋を叩く」
という声が上がったが、これは可能性が薄い。マンホールの蓋なんて少々のことでは音が響きそうもないし。路上はトラックがビュンビュン走っているのだ。よほど静かな深夜、しかもそれと注意して聴くのであれば、指の骨のところでコンコンと叩く音が聴えるかもしれない。のではあるが、しかしそんな深夜、ひたすらマンホールの音に耳をそばだてて歩く人がいたとすれば、それはもう変質者というか、いや変質者であっても助けてくれればよいが、果してそんな人が通報などしてくれるかどうか。マンホールの蓋の前にしゃがみ込んで、下からコンコンと叩いている音をじーっと聴いているだけかもしれない。
「蓋の穴から指を出して振る」
という声が上がったが、これも知識人の林氏に否定された。マンホールの蓋というのは思いのほか分厚くて、指を入れても届かないという。指の長い人でもやっと先だけがのぞくぐらいで、第一関節までいかず、従って指を「振る」というわけにはいかない。
でも想像していて痛くなった。仮りにもっと指の長い人がいたとしてマンホールの蓋の穴から指先を出し、その関節を曲げて伸ばして懸命に指先を振る。しかしそんな小さなものがトラックの運転席から見えるわけもなく、そこを太いタイヤがスピードをゆるめずに。
ブチッと音が。
「痛い、やめてくれよ、そんな話」
路上観察学会のメンバーは身を縮めた。しかし広い車道の真ん中に小さな肌色のものがプツリと出て動いている光景は、これはなかなか神秘的でもある。
「結局その人はいろいろ考えた揚句にね、お金を出したんですよ」
たまたま胸のポケットに一万円札を持っていたのだそうだ。それを取り出して細長く折り、マンホールの小さな穴から地上に出して、ヒラヒラと振りつづけた。
「凄いね、その光景は」
たしかに紙幣というのは不思議な魔力をもっている。小さく折り畳んだものが駅の階段に落ちていても、それはたちまち目に止まる。新聞紙の切れ端やレッテルの切れ端とはまるで違う。あの精巧な印刷模様が一瞬に目を引きつける。それが広い車道の真ん中で小さく揺れていれば、それは実に怪しい光景だ。たしかにほかのものよりは効果があるだろう。やはり追いつめられた人の考えは凄いと思った。
「でもね、それが落し物だと思われて、スッと持っていかれたらおしまいだね」
その話にはみんな笑った。この場合は変質者ではないが、非常に無神経な男といえばいいのか。
とにかく路上に一万円札が突き出てる、これは儲けたというので取ってしまう。そのデぺズマン(位置のどんでん返し)の理由については考えもしない。指でつまんでサッと抜き取る。
しかし閉じ込められた男の方は一大事だ。それをただ持っていかれたらおしまいだから、お札の端をギュッと指で挟む。すると路上の男は、
「お、何だこれは⁉」
とばかり、負けじとギュッとつまんで抜き取ってしまう。そのお札が下で挟まれていた理由なんて考えもせずに、
「どうだ、俺の勝ちだ」
なんて胸を張る。そういう単純な男って、いるもんだ。
さあ地下の男は大変である。もはやそれで連絡の道は跡絶えてしまう。慌ててポケットを探ると、千円札が一枚出てきた。一万円よりは価値はないが、それでも注意は引くはずだ。で細長く折って穴から突き出し、ヒラヒラと。
路上では一万円札をせしめた男が、ひょっとしてまだ出るのかと待っているのだ。そこへまた千円札がヒラヒラだから、サッと手を出し、
「何だ、こんどは千円か。ケチな野郎だな」
と、地下の事情など想像もしないくせに、ケチな野郎と想定だけして、その千円札を引っ張りあった揚句にまた抜き取ってしまう。
「それじゃ地下の人はいくら金があったって足りないね」
と、そこのところは笑い話なのだけれど、お札を穴から出して振った話は本当である。そのときお札を持ってなかったら、その人は地下で冷たくなっていたのだ。
その教訓を忘れずに、マンホールから地下に潜る人は、ポケットに必ず何千円か何万円かの見せ金を持つそうなのである。