「近頃のこと - 和田芳恵」講談社文芸文庫 順番が来るまで から

 

「近頃のこと - 和田芳恵講談社文芸文庫 順番が来るまで から

私の家に二匹の犬と三匹の猫と一羽の小鳥がいる。どれも欲しくて手に入れたものでなく、棄てられたり、頼まれて途中から世話するようになった小動物である。
ゴロという雄猫が、七月十二日の夜、好きなヒラメの頭を食べていて、骨を喉にひっかけてしまった。
ゴロは食べものに幅がなくて、白身の刺身やトビウオの焼いたのというように数えあげる程度の種類なので、いつも魚屋にあるとはかぎらない。トラという、もう一匹の雄猫はなんでも食べるが、ゴロはきらいなものは、どんなに腹が減っていても、見向きもしない。
「いやな奴だな」
と私はゴロを憎んだ。こういう育てかたをして、飼猫を棄てた人間を、お上品振った、そのくせ、あきっぽい性格だろうと想像するが、相手を突きとめることができないから、ゴロに八つ当りしていた。
トラは、やんちゃ坊主で、食べ散らすが、ゴロは、好きなもののせいもあるが、きれいにたべる。
雌猫のチロは、男どもの食べおわったのち、残したもので間にあわせる。 
ゴロが骨を喉にひっかけたとき、私は次の部屋にいたが、トラが、外から帰ってきて、ゴロが食べているヒラメを取ろうとしたらしい。あわてて、ゴロはヒラメの頭を口に入れて、のみこんだのが、途中でつかえたらしい。苦しがるので、うちの者がゴロの口の中へ手をいれてとろうとしたら、噛みついたそうである。
「ゴロか喉に骨をさした」
と、妻が叫んで、私も重い腰をあげた。
ゴロは、じっとして、時折、から咳をしたり、血のまじったよだれを吐いたりした。
私の家の動物たちは、醍醐さんという動物愛護協会に長いあいた勤めて、独立開業した医師の世話になっているが、翌日の日曜、伊豆で学会があり、それに出席のため出掛けて留守であった。運が悪いとき、ゴロがとんだ災難にあったものだと私は思った。
ゴロは私の部屋の仕事机のうえで、じっとしゃがんだ。
相手が弱ったと知れば、それにつけこんで意地わるくするのが動物の世界だから、ゴロは私を頼ったらしい。
机のうえから、私は、ペン皿や原稿用紙などをおろして、ゴロの場所をひろげた。
ゴロは土曜の夜から月曜の朝まで、水一滴のまず、もちろん、食べものも採らずに、机のうえにうずくまったまま、静かに耐えた。
私たち人間のほうが息ぐるしくなって、ゴロといっしょに、から咳をしたりした。
どの猫も、そうだとは思えないが、ちっとも、じたばたせずに死を待っているようなところがゴロにはあった。たまに血のまじったよだれを吐くと、足で敷物を掻き寄せて、隠そうとしたりした。
月曜の朝、妻がゴロを醍醐医院に運び込んで、つかえていたヒラメの上顎骨を取りだしてもらった。骨には歯がついていて、食道と気管にまたがって、歯の部分がささっていたそうだから、猫の力で吐きだすことは不可能であった。敗血症にならない注射や栄養注射をしたゴロは、まだ、麻酔のきいたままで帰ってきた。
「夕方には麻酔からさめるそうです」
と妻が言った。
医師の言ったとおりにゴロは麻酔からさめ、台所で半煮えの刺身をたべていたが、急に思いだしたように外へ飛びだしてしまった。排泄のためと思われた。

私は、現在、リューマチのような症状で近くの鍼や灸などで治療する人のところへかよっている。
肺気腫でからだが弱っていたが、去年の九月に気管支肺炎になった。あとでわかったことだが、危険な状態であったらしい。私は、ちっとも、死ぬなどとは思わなかったが、なおすために、強い薬もつかったらしく、その後遺症として、リューマチのようになった様子である。
左の腕から指の先にかけて、いやな痛みを感じるようになったが、近頃は右の指先きにも腫れが来た。
私はものを書くことで長いあいだ生活費を得てきたが、世にいう流行作家になったこともなく、したがって書痙[しよけい]になったこともない。自分らしい遣りかたで、どうにか生活できたら、申し分がないと思ってきた。
それが、ことしになって、手の不自由を感じるようになって、かなり不安である。
私は、付きあいのよい男で、原稿をたのまれると、すぐ引き受けて、とたんに後悔ばかりしてきた。
まとまった仕事が、こんなことではできないから、この原稿を最後に随筆などは書かぬことにした。これは気管支肺炎で死んでいたかもしれないということを、はっきり知ったせいである。
ゴロが、もう少しで死ぬところだったことに立ちあって、私は、どんなにしても、ゴロの真似はできそうもないと思った。
人間が、この世の幕を閉じるのは、自分の思ったようにゆくはずもないが、なにを書いていて最後になったかは、決心しだいで、どうにかなるはずである。
これを書いている時点で、最近の私の短篇集は『接木の台』である。
この短篇集を読んだ年下の友だちか、「こんな短篇を書いていたら、誰だって、病気になりますよ」と言われた。この人は図書館に勤めている。
いま、私は、こういう小説しか、書けない。こんなときに、図書館の友だちに言われたように病気になって、少し、迷いがおきていた。
きのう、同じ仕事の仲間が顔をだして、
「Oさんが、『接木の台』のようなものを書くと、からだをこわすのではないかと心配していましたよ」
と言った。Oさんは出版社の編集者で、若い作家に書卸しを頼んだりしている。専門家の意見と思っていいだろう。
Oさんも図書館に勤める友だちと同じ意見だが、もちろん、私は誰にも言ったことがないから、二人は、別々に考えた結果である。
私の書く作品に死の影がさしてきたのかもしれないと思ったりした。
もう七十に手が届く、明治生まれの私に、これは当然のことかも知れない。
急な話であったが「文藝」から連載小説を頼まれた。私は書くことにしたが、約束してから、ふた月も延ばしてもらった。
リューマチのような鈍痛がなおってからにしたいと考えたからだった。
小説を書く、いちばん、よい状態というのは、どういうことかわからない。
とにかく、八月十五日締切の第一回を、どうしても渡そうと思ったのは、Oさんの伝言を聞いた直後だった。
徳田秋聲は、そのとき、書きたいと思っている小説を書けば、水道の栓をひねったように、また、次の小説が書けるものだと言ったが、天才のことだから、そのまま、誰にも通用するとは限らない。
とにかく、私は書くことにした。
長篇小説を書きながら、途中で死ぬかもしれないなあと私は思ったりしたが、ちっとも心ぼそい気はしなかった。
光が降りそそぐ、広い野原にひっくりかえって、流れる雲を見ているような、のんびりした感じになっていた。