(巻三十六)この人がこんな冗談おでん酒(上村敏夫)

(巻三十六)この人がこんな冗談おでん酒(上村敏夫)

3月8日水曜日

朝は春霞のかかった晴れ。細君はコレステロール系の定期検診でお出掛けになり、11時ころ牛コマを買って戻ってきた。今日はクリニックは空いていたとの由。

細君が外出した日の昼飯は赤飯パックとカップ麺で今日は赤いキツネを頂いた。旨し。

男といふ性は峠を過ぎゆきて

赤いきつねを啜りいるなり(田島邦彦)

午後3時半から歯科に予約がしてあり、家を3時少し前に出て図書館で返却をしてから駅前の歯科に向かった。

その途中で都住3によりクロちゃんと戯れたあと、隣接する公園を通るといつもサンちゃんがいた藤棚のそばに花束が置かれていた。サンちゃんをシマちゃんと呼んで毎日食事を与えていた猫婆さんが献花したのだろうか?

その猫婆さんに依ればサンちゃん(akaシマちゃん)は少なくとも十三歳だと言っていた。猫の十三歳は人間だと六十八歳だとか?物分かりのいい雌猫で初めの頃はスナックをあげる手を引っ掻かれたが、旨いものをくれると爺さんだと理解したあとは安心してねだるようになったし、撫でたり掻いたりしてもおとなしく目を細めていた。いい猫だった。

春がきて猫ほつとして逝きにけり(亀)

願い事-涅槃寂滅、酔生夢死です。

猫のように悟って静かに辞世したいが、猫には及べまい。

和田芳恵氏の『荷風先生寸感』を読んだので、

葛飾土産(其の二) - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から

を読み返した。

よし切や葛飾ひろき北みなみ(永井荷風)

葛飾土産(其の二) - 永井荷風岩波文庫 荷風随筆集(上) から

千葉街道の道端に茂っている八幡不知[やわたしらず]の藪の前をあるいて行くと、やがて道をよこぎる一条[ひとすじ]の細流に出会う。

> 両側の土手には草の中に野菊や露草がその時節には花をさかせている。流の幅は二間くらいはあるであろう。通る人に川の名をきいて見たがわからなかった。しかし真間川[ままがわ]の流の末だということだけは知ることができた。

真間川はむかしの書物には継川ともしるされている。手児奈[てこな]という村の乙女の伝説から今もってその名は人から忘れられていない。

市川の町に来てから折々の散歩に、私は図[はか]らず江戸川の水が国府台[こうのだい]の麓の水門から導かれて、深く町中に流込んでいるのを見た。それ以来、この流のいずこを過ぎて、いずこに行くものか、その道筋を見きわめたい心になっていた。

これは子供の時から覚え初めた奇癖である。何処ということなく、道を歩いてふと小流[こなが]れに会えば、何のわけとも知らずその源委[げんい]がたずねて見たくなるのだ。来年は七十だというのにこの癖はまだ消え去らず、事に会えば忽ち再発するらしい。雀百まで躍るとかいう諺も思合されて笑うべきかぎりである。

かつて東京にいたころ、市内の細流溝渠について知るところの多かったのも、けだしこの習癖のためであろう。これを例すれば植物園門前の細流を見てその源を巣鴨に探り、関口の滝を見ては遠きをいとわず中野を過ぎて井の頭の池に至り、また王子音無川[おうじおとなしがわ]の流の末をたずねては、根岸の藍染川[あいぞめがわ]から浅草の山谷堀[さんやぼり]まで歩みつづけたような事がある。しかしそれはいずれも三十前後の時の戯れで、当時の記憶も今は覚束なく、ここに識す地名にも誤謬がなければ幸である。

真間川の水は堤の下を低く流れて、弘法寺の岡の麓、手児奈の宮のあるあたりに至ると、数町にわたってその堤の上に桜の樹が列植されている。その古幹と樹姿とを見て考えると、真間の桜の樹齢は明治三十年頃われわれが隅田堤に見た桜と同じくらいかと思われる。空襲の頻々たるころ、この老桜がわずか[難漢字]に災[わざわい]を免れて、年々香雲あいたい[あいたい]として戦争中人を慰めていたことを思えば、また無量の感に打たれさるを得ない。しかしこの桜もまた隅田堤のそれと同じく、やがては老い朽ちて薪となることを免れまい。戦敗の世は人挙[ひとこぞ]って米の価を議するにいそがしく、花を保護する暇[いとま]がないであろう。

真間の町は東に行くに従って人家は少く松林が多くなり、地勢は次第に卑湿となるにつれて田と畠がつづきはじめる。丘阜[きゆうふ]に接するあたりの村は諏訪田とよばれ、町に近いあたりは菅野[すがの]と呼ばれている。真間川の水は菅野から諏訪田につづく水田の間を流れるようになると、ここに初て夏は河骨[こうほね]、秋には蘆[あし]の花を見る全くの野川になっている。堤の上を歩むものも鍬か草籠をかついだ人ばかり。朽ちた丸木橋の下では手拭を冠[かぶ]った女たちがその時々の野菜を洗って車に積んでいる。たまには人が釣をしている。稲の播[ま]かれるころには殊に多く白鷺が群をなして、耕された田の中を歩いている。

一時[ひとしきり]、わたくしの化寓していた家の裏庭からは竹垣一重を隔て、松の林の間から諏訪田の水田を一目に見渡す。朝夕わたくしはその眺望をよろこび見るのみならず、時を定めず杖をひくことにしている。桃や梨を栽培した畠の藪垣、羊の草をはんでいる道のほとり。いずこもわたくしの腰を休めて、時には書を読む処にならざるはない。

真間川の水は絶えず東へ東へと流れ、八幡から宮久保という村へとつづくやや広い道路を貫くと、やがて中山の方から流れてくる水と合して、この辺では珍しいほど堅固に見える石づくりの堰に遮[さえぎ]られて、雨の降って来るような水音を立てている。なお行くことしばらくにして川の流れは京成電車の線路をよこぎるに際して、橋と松林と小商いする人家との配置によって水彩画様の風景をつくっている。

或日試みた千葉街道の散策に、わたくしは偶然この水の流れに出会ってから、生来好奇の癖はまたしてもその行衛[ゆくえ]とその沿岸の風景を究[きわ]めずにはいられないような心持にならせた。

流は千葉街道からしきりと東南の方へ迂回して、両岸とも貧しげな人家の散在した陋巷[ろうこう]を過ぎ、省線電車の線路をよこぎると、ここに再び田と畠との間を流れる美しい野川になる。しかしその眺望のひろびろしたことは、わたくしが朝夕その化寓から見る諏訪田の景色のようなものではない。

水田は低く平に、雲の動く空のはずれまで遮るものなくひろがっている。遥に樹林と人家とが村の形をなして水田のはずれに横たわっているあたりに、灰色の塔の如きものの立っているのが見える。江戸川の水勢を軟らげ暴漲[ぼうちよう]の虞[おそれ]なからしむる放水路の関門であることは、その傍[そば]まで行って見なくとも、その形がそのことを知らせている。

水の流れは水田の唯中を殆ど省線の鉄路と方向を同じくして東へ東へと流れて行く。遠くに見えた放水路の関門は忽ち眼界を去り、農家の低い屋根と高からぬ樹林の途絶えようとしてはまた続いて行くさまは、やがて海辺に近く一条の道路の走っていることを知らせている。畦道[あぜみち]をその方に歩いて行く人影のいつか豆ほどに小さくなり、折々飛立つ白鷺の忽ち見えなくなることから考えて、近いようでも海まではかなりの距離があるらしい。

これは堤防の上を歩みなから見る右側の眺望であるが、左側を見れば遠く小工場の建物と烟突のちらばらに立っている間々を、省線の列車が走り、松林と人家とは後方の空を限る高地と共に、船橋の方へとつづいている。高地の下の人家の或処は立て込んだり、或処は少しくまばらになったりしているのは一ツの町が村になったり再び町になったりすることを知らしているのである。初に見た時、やや遠く雲をついて高地の空に聳えていた無線電信の鉄柱が、わたくしの歩みを進めるにつれて次第に近く望まれるようになった。玩具のように小さく見える列車が突然駐[とま]って、また走り出すのと、そのあたりの人家の殊に込み合っている様子とで、それは中山の駅であろうと思われた。

水はこの辺に至って、また少しく曲りやや南らしい方向へと流れて行く。今まで掛けてある橋は三、四ヵ所もあったらしいが、いずれも古びた木橋で、中には板一枚しかわたしてないものもあった。然[しか]るにわたくしは突然セメントで築き上げた、しかも欄干さえついているものに行き会ったので、驚いて見れば「やなぎばし」としてあった。真直に中山の町の方から来る道路があって、轍[わだち]の跡が深く堀り込まれている。子供の手を引いて歩いてくる女連の着物の色と、子供の持っている赤い風船の色とが、冬枯した荒涼たる水田[みずた]の中に著しく目立って綺麗に見える。小春の日和をよろこび法華経寺へお参りした人たちが柳橋を目あてに、右手に近く見える村の方へと帰って行くのであろう。

流の幅は大分ひろく、田舟[たぶね]の朽ちたまま浮かんでいるのも二、三艘に及んでいる。一際[ひときわ]こんもりと生茂った林の間から寺の大きな屋根と納骨堂らしい二層の塔が聳えている。水のながれはやがて西東に走る一条の道路に出てここに再び橋がかけられている。道の両側には生垣をめぐらし倉庫をかまえた農家が立並び、堤には桟橋が掛けられ、小舟が幾艘も繋がれている。

遥に水の行衛を眺めると、来路と同じく水田がひろがっているが、目を遮るものは空のはずれを行く雲より外には何物もない。卑湿の地もほどなく尽きて泥海になるらしいことが、幹を斜にした樹木の姿や、吹きつける風の肌ざわりで推察せられる。 

たどりたどって尋ねて来た真間川の果ももう遠くはあるまい。

鶏の歩いている村の道を、二、三人物食いながら来かかる子供を見て、わたくしは土地の名と海の遠さとを尋ねた。

海まではまだなかなかあるそうである。そしてここは原木[ばらき]といい、あのお寺は妙行寺と呼ばれることを教えられた。

寺の太鼓が鳴り出した。初冬の日はもう斜である。

わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵[きびす]をかえした。

昭和廿二年十二月