「富嶽百景 - 太宰治」岩波文庫 富嶽百景・走れメロス から

 

富嶽百景 - 太宰治岩波文庫 富嶽百景走れメロス から

富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁[ぶんちよう]の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図によって東西及び南北に断面図を作ってみると、東西縦断は頂角、百二十四度となり、南北は百十七度である。広重、文晁に限らず、たいていの絵の富士は、鋭角である。いただきが、細く、高く、華奢[きやしや]である。北斎にいたっては、その頂角、ほとんど三十度くらい、エッフェル鉄塔のような富士さえ描いている。けれども、実際の富士は、鈍角も鈍角、のろくさと広がり、東西、百二十四度、南北は百十七度、決して、秀抜の、すらと高い山ではない。たとえば私が、インドかどこかの国から、突然、鷲にさらわれ、すとんと日本の沼津あたりの海岸に落とされて、ふと、この山を見つけても、そんなに驚嘆しないだろう。ニッポンのブジヤマを、あらかじめあこがれているからこそ、ワンダフルなのであって、そうでなくて、そのような俗な宣伝を、いっさい知らず、素朴な、純粋の、うつろな心に、はたして、どれだけ訴えうるか、そのことになると、多少、心細い山である。低い。すそのひろがっているわりに、低い。あれくらいのすそを持っている山ならば、少なくとも、もう一・五倍高くなければいけない。
十国峠から見た富士だけは、高かった。あれは、よかった。はじめ、雲のために、いただきが見えず、私は、そのすその勾配から判断して、たぶん、あそこあたりが、いただきであろうと、雲の一点にしるしをつけて、そのうちに、雲が切れて、見ると、ちがった。私が、あらかじめ印をつけておいたところより、その倍も高いところに、青い頂が、すっと見えた。おどろいた、というよりも私は、へんにくすぐったく、げらげら笑った。やっていやがる、と思った。人は、完全のたのもしさに接すると、まず、だらしなくげらげら笑うものらしい。全身のネジが、他愛なくゆるんで、これはおかしな言いかたであるが、帯紐といて笑うといったような感じである。諸君が、もし恋人と会って、会ったとたんに、恋人がげらげら笑い出したら、慶祝である。必ず、恋人の非礼をとがめてはならぬ。恋人は、君に会って、君の完全のたのもしさを、全身に浴びているのだ。
東京の、アパートの窓から見る富士は、くるしい。冬には、はっきり、よく見える。小さい、まっ白な三角が、地平線にちょこんと出ていて、それが富士だ。なんのことはない、クリスマスの飾り菓子である。しかも左のほうに、肩が傾いて心細く、船尾のほうからだんだん沈没しかけてゆく軍艦の姿に似ている。三年まえの冬、私はある人から、意外な事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりでがぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立って、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、まっ白で、左のほうにちょっと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト道を、さかなやの自転車が疾駆し、おう、けさは、やけに富士がはっきり見えるじゃねえか、めっぽう寒いや、などつぶやきのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網なでながら、じめじめ泣いて、あんな思いは、二度と繰り返したくない。
昭和十三年の初秋、思いをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。
甲州。ここの山々の特徴は、山々の起伏の線の、へんに虚しい、なだらかさにある。小島烏水[こじまうすい]という人の日本山水論にも、「山のすね者は多く、この土[ど]に仙遊するがごとし。」とあった。甲州の山々は、あるいは山の、げてものなのかもしれない。私は、甲府市からバスにゆられて一時間。御坂峠[みさかとうげ]へたどりつく。
御坂峠、海抜千三百メートル。この峠の頂上に、天下茶屋という、小さな茶店があって、井伏鱒二氏が初夏のころから、ここの二階に、こもって仕事をしておられる。私は、それを知ってここへ来た。井伏氏のお仕事の邪魔にならないようなら、隣室でも借りて、私も、しばらくそこで仙遊しようと思っていた。
井伏氏は仕事をしておられた。私は、井伏氏のゆるしを得て、当分その茶屋に落ちつくことになって、それから、毎日、いやでも富士と真正面から、向き合っていなければならなくなった。この峠は、甲府から東海道に出る鎌倉往還の衝に当たっていて、北面富士の代表観望台であると言われ、ここから見た富士は、むかしから富士三景の一つにかぞえられているのだそうであるが、私は、あまり好かなかった。好かないばかりか、軽蔑さえした。あまりに、おあつらいむきの富士である。まんなかに富士があって、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひっそりとうずくまって湖を抱きかかえるようにしている。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ絵だ。芝居の書割だ。どうにも注文どおりの景色で、私は、恥ずかしくてならなかった。

私が、その峠の茶屋へ来て二、三日たって、井伏氏の仕事も一段落ついて、ある晴れた午後、私たちは三つ峠へのぼった。三つ峠、海抜千七百メートル。御坂峠より、少し高い。急坂をはうようにしてよじ登り、一時間ほどして三つ峠頂上に達する。蔦[つた]かずらかきわけて、細い山路、はうようにしてよじ登る私の姿は、決して見よいものではなかった。井伏氏は、ちゃんと登山服着ておられて、軽快な姿であったが、私には登山服の持ち合わせがなく、ドテラ姿であった。茶屋のドテラは短く、私の毛ずねは、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺[ろうや]から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少しくふうして、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦わら帽をかぶってみたのであるが、いよいよ変で、井伏氏は、人のなりふりを決して軽蔑しない人であるが、このときだけはさすがに少し、気の毒そうな顔をして、男は、しかし、身なりなんか気にしないほうがいい、と小声でつぶやいて私をいたわってくれたのを、私は忘れない。とかくして頂上についたのであるが、急に濃い霧が吹き流れて来て、頂上のパノラマ台という、断崖の縁[へり]に立ってみても、いっこうに眺望がきかない。何も見えない。井伏氏は、濃い霧の底、岩に腰をおろし、ゆっくり煙草を吸いながら、放屁なされた。いかにも、つまらなそうであった。パノラマ台には、茶店が三軒ならんで立っている。そのうちの一軒、老爺と老婆と二人きりで経営しているじみな一軒を選んで、そこで熱い茶を飲んだ。茶店の老婆は気の毒がり、ほんとうにあいにくの霧で、もう少したったら霧もはれると思いますが、富士は、ほんのすぐそこ、くっきり見えます、と言い、茶店の奥から富士の大きい写真を持ち出し、崖の端に立ってその写真を両手で高く掲示して、ちょうどこのへんに、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます、と懸命に注釈するのである。私たちは、番茶をすすりながら、その富士をながめて、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思わなかった。

その翌々日であったろうか、井伏氏は、御坂峠を引きあげることになって、私も甲府までおともした。甲府で私は、ある娘さんと見合いすることになっていた。井伏氏に連れられて甲府のまちはずれの、その娘さんのお家へお伺いした。井伏氏は、無雑作[むぞうさ]な登山服姿である。私は、角帯に、夏羽織を着ていた。娘さんの家のお庭には、ばらがたくさん植えられていた。母堂に迎えられて客間に通され、挨拶して、そのうちに娘さんも出て来て、私は、娘さんの顔を見なかった。井伏氏と母堂とは、おとな同士の、よもやまの話をして、ふと、井伏氏が、
「おや、富士。とつぶやいて、私の背後の長押[なげし]を見あげた。私も、からだをねじ曲げて、うしろの長押を見上げた。富士山頂大噴火口の鳥瞰写真が、額縁にいれられて、かけられていた。まっしろい睡蓮の花に似ていた。私は、それを見とどけ、また、ゆっくりからだをねじ戻すとき、娘さんを、ちらと見た。きめた。多少の困難があっても、このひとと結婚したいものだと思った。あの富士は、ありがたかった。
井伏氏は、その日に帰京され、私は、ふたたび御坂にひきかえした。それから、九月、十月、十一月の十五日まで、御坂の茶屋の二階で、少しずつ、少しずつ、仕事をすすめ、あまり好かないこの「富士三景の一つ」と、へたばるほど対談した。
いちど、大笑いしたことがあった。大学の講師が何かやっている浪漫派の一友人が、ハイキングの途中、私の宿に立ち寄って、そのときに、ふたり二階の廊下に出て、富士を見ながら、
「どうも俗だねえ。お富士さん、という感じじゃないか。」
「見ているほうで、かえって、てれるね。」
などと生意気なことを言って、煙草をふかし、そのうちに、友人は、ふと、
「おや、あの僧形のものは、なんだね?」とあごをしゃくった。
墨染めの破れたころもを身にまとい、長い杖を引きずり、富士を振り仰ぎ振り仰ぎ、峠をのぼって来る五十歳くらいの小男がある。
「富士見西行、といったところだね。かたちが、できてる。」私は、その僧をなつかしく思った。「いずれ、名のある聖僧かもしるないね。」
「ばか言うなよ。乞食だよ。」友人は冷淡だった。
「いや、いや。脱俗しているところがあるよ。歩きかたなんか、なかなか、できてるじゃないか。むかし、能因法師が、この峠で富士をほめた歌を作ったそうだが-」
私が言っているうちに友人は、笑い出した。
「おい、見たまえ。できてないよ。」 
能因法師は、茶店のハチという飼い犬にほえられて、周章狼狽[しゆうしようろうばい]であった。そのありさまは、いやになるほど、みっともなかった。
「だめだねえ。やっぱり。」私は、がっかりした。
乞食の狼狽は、むしろ、あさましいほどに右往左往。ついには杖をかなぐり捨て、取り乱し、取り乱し、いまはかなわずと退散した。実に、それは、できてなかった。富士も俗なら、法師も俗だ、ということになって、いま思い出しても、ばかばかしい。新田[につた]という二十五歳の温厚な青年が、峠を降りきった岳麓の吉田という細長い町の、郵便局につとめていと、そのひとが、郵便物によって、私がここに来ていることを知った、と言って、峠の茶屋をたずねて来た。二階の私の部屋で、しばらく話をして、ようやく慣れて来たころ、新田は笑いながら、実は、もう二、三人、僕の仲間がありまして、皆でいっしょにお邪魔にあがるつもりだったのですが、いざとなると、どうも皆、しりごみしまして、太宰さんは、ひどいデカタンで、それに、性格破産者だ、と佐藤春夫先生の小説に書いてございましたし、まさか、こんなまじめな、ちゃんとしたおかただとは、思いませんでしたから、僕も無理に皆を連れて来るわけにはいきませんでした。こんどは、皆を連れて来ます。かまいませんでしょうか。
「それは、かまいませんけれど。」私は、苦笑していた。「それでは、君は、必死の勇をふるって、君の仲間を代表して僕を偵察に来たわけですね。」
「決死隊でした。」新田は、率直だった。「ゆうべも、佐藤先生のあの小説を、もういちど繰りかえして読んで、いろいろ覚悟をきめて来ました。」
私は、部屋のガラス戸越しに、富士を見ていた。富士は、のっそり黙って立っていた。偉いなあ、と思った。
「いいねえ。富士は、やっぱり、いいとこあるねえ。よくやってるなあ。」富士には、かなわないと思った。念々と動く自分の愛憎が恥ずかしく、富士は、やっぱり偉い、と思った。よくやってる、と思った。
「よくやっていますか。」新田には、私の言葉がおかしかったらしく、聡明に笑っていた。

新田は、それから、いろいろな青年を連れて来た。皆、静かなひとである。皆は、私を、先生、と呼んだ。私はまじめにそれを受けた。私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまずしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言われて、だまってそれを受けていいくらいの、苦悩は、経て来た。たったそれだけ。わら一すじの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はっきり持っていたいと思っている。わがままな駄々っ子のように言われて来た私の、裏の苦悩を、いったい幾人知っていたろう。新田と、それから田辺という短歌のじょうずな青年と、二人は、井伏氏の読者であって、その安心もあって、私は、この二人といちばん仲よくなった。いちど吉田に連れていってもらった。おそろしく細長い町であった。岳麓の感じがあった。富士に、日も、風もさえぎられて、ひょろひょろに伸びた茎のようで、暗く、うすら寒い感じの町であった。道路に沿って清水が流れている。これは、岳麓の町の特徴らしく、三島でも、こんな具合に、町じゅうを清水が、どんどん流れている。富士の雪が溶けて流れて来るのだ、とその地方の人たちが、まじめに信じている。吉田の水は、三島の水に比べると、水量も不足だし、きたない。水をながめながら、私は、話した。
「モウパスサンの小説に、どこかの令嬢が、貴公子のところへ毎晩、川を泳いで会いにいったと書いてあったが、着物は、どうしたのだろうね。まさか、裸ではないかろう。」
「そうですね。」青年たちも、考えた。「海水着じゃないでしょうか。」
「頭の上に着物を載せて、むすびつけて、そうして泳いでいったのかな?」
青年たちは、笑った。
「それとも、着物のままはいって、ずぶぬれの姿で貴公子と会って、ふたりでストオブでかわかしたのかな?そうすると、かえるときには、どうするだろう。せっかく、かわかした着物を、またずぶぬれにして、泳がなければいけない。心配だね。貴公子のほうで泳いで来ればいいのに。男なら、猿股一つで泳いでも、そんなにみっともなくないからね。貴公子、金鎚[かなづち]だったのかな?」
「いや、令嬢のほうで、たくさんほれていたからだと思います。」新田は、まじめだった。
「そうかもしれないね。外国の物語の令嬢は、勇敢で、かわいいね。好きだとなったら、川を泳いでまで会いに行くんだからな。日本では、そうはいかない。なんとかいう芝居があるじゃないか。まんなかに川が流れて、両方の岸で男と姫君とが、愁嘆している芝居が。あんなとき、何も姫君、愁嘆する必要がない。泳いでゆけば、どんなものだろう。芝居で見ると、とても狭い川なんだ。じゃぶじゃぶ渡っていったら、どんなもんだろう。あんな愁嘆なんて、意味ないね。同情しないよ。朝顔の大井川は、あれは大水で、それに朝顔は、めくらの身なんだし、あれには多少、同情するが、けれども、あれだって、泳いで泳げないことなはない。大井川の棒杭[ぼうくい]にしがみついて、天道さまを、うらんでいたんじゃ、意味ないよ。あ、ひとりあるよ。日本にも、勇敢なやつが、ひとりあったぞ。あいつは、すごい。知ってるかい?」
「ありますか。」青年たちも、目を輝かせた。
清姫安珍を追いかけて、日高川を泳いだ。泳ぎまくった。あいつは、すごい。ものの本によると、清姫は、あのとき十四だったんだってね。」
道を歩きながら、ばかな話をして、まちはずれの田辺の知り合いらしい、ひっそり古い宿屋に着いた。

そこで飲んで、その夜の富士がよかった。夜の十時ごろ、青年たちは、私ひとりを宿に残して、おのおの家へ帰っていった。私は、眠れず、どてら姿で、外へ出てみた。おそろしく、明るい月夜だった。富士が、よかった。月光を受けて、青く透きとおるようで、私は、狐に化かされているような気がした。富士が、したたるように青いのだ。燐が燃えているような感じだった。鬼火。狐火。ほたる。すすき。葛の葉。私は、足のないような気持ちで、夜道をまっすぐに歩いた。下駄の音だけが、自分のものでないように、他の生きもののように、からんころんからんころん、とても澄んで響く。そっと、振りむくと、富士がある。青く燃えて空に浮かんでいる。私はため息をつく。維新の志士。鞍馬天狗。私は、自分を、それだと思った。ちょっと気取って、ふところ手して歩いた。ずいぶん自分が、いい男のように思われた。ずいぶん歩いた。財布を落とした。五十銭銀貨が二十枚くらいはいっていたので、重すぎて、それでふところからするっと脱け落ちたのだろう。私は、不思議に平気だった。金がなかったら、御坂まで歩いてかえればいい。そのまま歩いた。ふと、いま来た道を、そのとおりに、もういちど歩けば、財布はある、ということに気がついた。ふところ手のまま、ぶらぶら引きかえした。富士。月夜。維新の志士。財布を落とした。興あるロマンスだと思った。財布は道のまんなかに光っていた。あるにきまっている。私は、それを拾って、宿に帰って、寝た。
富士に、化かされたのである。私は、あの夜、あほうであった。完全に、無意志であった。あの夜のことを、いま思い出しても、へんに、だるい。

吉田に一泊して、あくる日、御坂へ帰って来たら、茶店のおかみさんは、にやにや笑って、十五の娘さんは、つんとしていた。私は、不潔なことをして来たのではないということを、それとなく知らせたく、きのう一日の行動を、聞かれもしないのに、ひとりでこまかに言いたてた。泊まった宿屋の名前、吉田のお酒の味、月夜富士、財布を落としたこと、みんな言った。娘さんも、きげんが直った。
「お客さん!起きて見よ!」かん高い声である朝、茶店の外で、娘さんが絶叫したので、私は、しぶしぶ起きて、廊下へ出て見た。
娘さんは、興奮して頬をまっかにしていた。だまって空を指さした。見ると、雪。はっと思った。富士に雪が降ったのだ。山頂が、まっしろに、光りかがやいていた。御坂の富士も、ばかにできないぞと思った。
「いいね。」
とほめてやると、娘さんは得意そうに、
「すばらしいでしょう?」といい言葉使って、「御坂の富士は、これでも、だめ?」としゃがんで言った。私が、かねがね、こんな富士は俗でだめだ、と教えていたので、娘さんは、内心しょげていたのかもしれない。
「やはり、富士は、雪が降らなければ、だめなものだ。」もっともらしい顔をして、私は、そう教えなおした。
私は、どてら着て山を歩きまわって、月見草の種を両の手のひらにいっぱいとって来て、それを茶店の背戸に播いてやって、
「いいかい、これは僕の月見草だからね、来年また来て見るのだからね。ここへおせんたくの水なんか捨てちゃいけないよ。」娘さんは、うなずいた。
ことさらに、月見草を選んだわけは、富士には月見草がよく似合うと、思い込んだ事情があったからである。御坂峠のその茶店は、いわば山中の一軒家であるから、郵便物は、配達されない。峠の頂上から、バスで三十分ほどゆられて峠のふもと、河口湖畔の、河口村という文字どおりの寒村にたどり着くのであるが、その河口村の郵便局に、私あての郵便物が留め置かれて、私は三日に一度くらいのわりで、その郵便物を受け取りに出かけなければならない。天気の良い日を選んで行く。
ここのバスの女車掌は、遊覧客のために、格別風景の説明をしてくれない。それでもときどき、思い出したように、はなはだ散文的な口調で、あれが三つ峠、向こうが河口湖、わかさぎという魚がいます。など、物憂[ものう]そうな、つぶやきに似た説明をして聞かせることもある。
河口局から郵便物を受け取り、またバスにゆられて峠の茶屋に引っ返す途中、私のすぐとなりに、濃い茶色の被布[ひふ]を着た青白い端正の顔の、六十歳くらい、私の母とよく似た老婆がしゃんとすわっていて、女車掌が、思い出したように、みなさん、きょうは富士がよく見えますね、と説明ともつかず、また自分ひとりの詠嘆ともつかぬ言葉を、突然言い出して、リュックサックしょった若いサラリイマンや、大きな日本髪ゆって、口もとをだいじにハンケチでおおいかくし、絹物まとった芸者ふうの女など、からだをねじ曲げ、いっせいに車窓から首を出して、いまさらのごとく、その変哲もない三角の山をながめては、やあ、とか、まあ、とか間の抜けた嘆声を発して、車内はひとしきり、ざわめいた。けれども、私のとなりの御隠居は、胸に深い憂悶[ゆうもん]でもあるのか、他の遊覧客とちがって、富士には一瞥も与えず、かえって富士と反対側の、山路に沿った断崖をじっと見つめて、私にはそのさまが、からだがしびれるほど快く感ぜられ、私もまた、富士なんか、あんな俗な山、見たくもないという、高尚な虚無の心を、その老婆に見せてやりたく思って、あなたのお苦しみ、わびしさ、みなよくわかる、と頼まれもせぬのに、共鳴のそぶりを見せてあげたく、老婆に甘えかかるように、そっとすり寄って、老婆とおなじ姿勢で、ぼんやり崖のほうを、ながめやった。
老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、
「おや、月見草。」
そう言って、細い指でもって、路傍の一か所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。
三七七八メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。

十月のなかば過ぎても、私の仕事は遅々として進まぬ。人が恋しい。夕焼け赤き雁[がん]の腹雲[はらぐも]、二階の廊下で、ひとり煙草を吸いながら、わざと富士には目もくれず、それこそ血のしたたるようなまっ赤な山の紅葉を、凝視していた。茶店の前の落ち葉を掃きあつめている茶店のおかみさんに、声をかけた。
「おばさん!あしたは、天気がいいね。」
自分でも、びっくりするほど、うわずって、歓声にも似た声であった。おばさんは箒[ほうき]の手をやすめ、顔をあげて、不審げにまゆをひそめ、
「あした、何かおありなさるの?」
そう聞かれて、私は窮した。
「なにもない。」
おかみさんは笑い出した。
「おさびしいのでしょう。山へでもおのぼりになったら?」
「山は、のぼっても、すぐまたおりなければならないのだから、つまらない。どの山へのぼっても、おなじ富士山が見えるだけで、それを思うと、気が重くなります。」
私の言葉が変だったのだろう。おばさんはただあいまいにうなずいただけで、また枯れ葉を掃いた。
ねるまえに、部屋のカーテンをそっとあけてガラス窓越しに富士を見る。月のある夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立っている。私はため息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい。あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽[かす]かに生きている喜びで、そうしてまた、そっとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんということもないのに、と思えば、おかしく、ひとりでふとんの中で苦笑するのだ。くるしいのである。仕事が、-純粋に運筆することの、その苦しさよりも、いや、運筆はかえって私の楽しみでさえあるのだが、そのことではなく、私の世界観、芸術というもの、あすの文字というもの、いわば、新しさというもの、私はそれらについて、まだぐずぐず、思い悩み、誇張ではなしに、身もだえしていた。
素朴な、自然のもの、従って簡潔な鮮明なもの、そいつをさっと一挙動でつかまえて、そのままに紙にうつしとること、それよりほかにはないと思い、そう思うときには、眼前の富士の姿も、別な意味をもって目にうつる。この姿は、この表現は、結局、私の考えている「単一表現」の美しさなのかもしれない。と少し富士に妥協しかけて、けれどもやはりどこかこの富士の、あまりにも棒状の素朴には閉口しているところもあり、これがいいなら、ほていさまの置物だっていいはずだ、ほていさまの置物は、どうにもがまんできない、あんなもの、とても、いい表現とは思えない、この富士の姿も、やはりどこか間違っている、これは違う、と再び思いまどうのである。
朝に、夕に、富士を見ながら、陰鬱な日を送っていた。十月の末に、ふもとの吉田のまちの、遊女の一団体が、御坂峠へ、おそらく年に一度くらいの解放の日なのであろう、自動車五台に分乗してやって来た。私は二階から、そのさまを見ていた。自動車からおろされて、色さまざまの遊女たちは、バスケットからぶちまけられた一群の伝書鳩のように、はじめは歩く方向を知らず、ただかたまってうろうろして、沈黙のまま押し合い、へし合いしていたが、やがてそろそろ、その異様の緊張がほどけて、てんでにぶらぶら歩きはじめた。茶店の店頭に並べられてある絵はがきを、おとなしく選んでいるもの、たたずんで富士をながめているもの、暗く、わびしく、見ちゃおれない風景であった。二階のひとりの男の、いのち惜しまぬ共感も、これら遊女の幸福に関しては、なんの加えるところがない。私は、ただ、見ていなければならぬのだ。苦しむものは苦しめ。落ちるものは落ちよ。私に関係したことではない。それが世の中だ。そう無理につめたく装い、かれらを見おろしているのだが、私は、かなり苦しかった。
富士にたのもう。突然それを思いついた。おい、こいつらを、よろしく頼むぜ、そんな気持ちで振り仰げば、寒空のなか、のっそり突っ立っている富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然[ごうぜん]とかまえている大親分のようにさえ見えたのであるが、私は、そう富士に頼んで、大いに安心し、気軽くなって茶店の六歳の男の子と、ハチというむく犬を連れ、その遊女の一団を見捨てて、峠のちかくのトンネルのほうへ遊びに出かけた。トンネルの入り口のところで、三十歳くらいのやせた遊女が、ひとり、何かしらつまらぬ草花を、だまって摘み集めていた。私たちがそばを通っても、ふりむきもせず熱心に草花をつんでいる。この女のひとのことも、ついでに頼みます、とまた振り仰いで富士にお願いしておいて、私は子供の手をひき、とっとと、トンネルの中にはいって行った。トンネルの冷たい地下水を、頬に、首筋に、滴々と受けながら、おれの知ったことじゃない、とわざと大またに歩いてみた。

そのころ、私の結婚の話も、一頓挫のかたちであった。私のふるさとからは、全然、助力が来ないということが、はっきりとわかってきたので、私は困ってしまった。せめて百円くらいは、助力してもらえるだろうと、虫のいい、ひとりぎめをして、それでもって、ささやかでも、厳粛な結婚式をあげ、あとの、世帯を持つに当たっての費用は、私の仕事でかせいで、しようと思っていた。けれども、二、三の手紙の往復により、うたから助力は、全く無いということが明らかになって、私は、途方にくれていたのである。このうえは、縁談ことわられてもしかたがない。と覚悟をきめ、とにかく先方へ、事の次第を洗いざらい言ってみよう、と私は単身、峠を下り、甲府の娘さんのお家へお伺いした。さいわい娘さんも、家にいた。私は客間に通され、娘さんと母堂と二人を前にして、悉皆の事情を告白した。ときどき演説口調になって、閉口した。けれども、わりにすなおに語りつくしたように思われた。娘さんは、落ちついて、
「それで、おうちでは、反対なのでございましょうか。」と、首をかしげて私にたずねた。
「いいえ、反対というのではなく、」私は右の手のひらを、そっと卓の上に押し当て、「おまえひとりで、やれ、という具合らしく思われます。」
「結構でございます。」母堂は、品よく笑いながら、「私たちも、ごらんのとおりお金持ちではござうませぬし、ことごとしい式などは、かえって当惑するようなもので、ただ、あなたおひとり、愛情と、職業に対する熱意さえ、お持ちならば、それで私たち、結構でございます。」
私は、お辞儀をするのも忘れて、しばらく呆然[ぼうぜん]と庭をながめていた。目の熱いのを意識した。この母に、孝行しようと思った。
かえりに、娘さんは、バスの発着所まで送って来てくれた。歩きながら、
「どうです。もう少し交際してみますか?」
きざなことを言ったものである。
「いいえ。もう、たくさん。」娘さんは、笑っていた。
「なにか、質問ありませんか?」いよいよ、ばかである。
「ございます。」
私は何を聞かれても、ありのまま答えようと思っていた。
「富士山には、もう雪が降ったでしょうか。」
私は、その質問に拍子抜けがした。
「降りました。いただきのほうに、-」と言いかけて、ふと前方を見ると、富士が見える。へんな気がしたでしょうか
「なあんだ。甲府からでも、富士が見えるじゃないか。ばかにしていやがる。」やくざな口調になってしまって、「いまのは、愚問です。ばかにしていやがる。」
娘さんは、うつむいて、くすくす笑って、
「だって、御坂峠にいらっしゃるのですし、富士のことでもお聞きしなければ、わるいと思って。」
おかしな娘さんだと思った。

甲府から帰って来ると、やはり、呼吸ができないくらいにひどく肩が凝っているのを覚えた。
「いいねえ、おばさん。やっぱし御坂は、いいよ。自分のうちに帰って来たような気さえするのだ。」
夕食後、おかみさんと、娘さんと、かわるがわる、私の肩をたたいてくれる。おかみさんの拳[こぶし]は固く、鋭い。娘さんのこぶしは柔らかく、あまりききめがない。もっと強く、もっと強くと私に言われて、娘さんは薪を持ち出し、それでもって私の肩をとんとんたたいた。それほどにしてもらわなければ、肩の凝りがとれないほど、私は甲府で緊張し、一心に努めたのである。
甲府へ行って来て、二、三日、さすがに私はぼんやりして、仕事をする気も起こらず、机のまえにすわって、とりとめのないらく書きをしながら、バットを七箱も八箱も吸い、また寝ころんで、金剛石もみがかずば、という唱歌を、繰り返し歌ってみたりしているばかりで、小説は、一枚も書きすすめることができなかった。
「お客さん。甲府へ行ったら、悪くなったわね。」
朝、私が机に頬をつき、目をつぶって、さまざまのことを考えていたら、私の背後で、床の間をふきながら、十五の娘さんは、しんからいまいましそうに、多少、とげとげしい口調で、そう言った。私は、振りむきもせず、
「そうかね。わるくなったかね。」
娘さんは、ふき掃除の手を休めず、
「ああ、わるくなった。この二、三日、ちっとも勉強すすまないじゃないの。あたしは毎朝、お客さんの書き散らした原稿用紙、番号順にそろえるのが、とっても、たのしい。たくさんお書きになっておれば、うれしい。ゆうべもあたし、二階へそっと様子を見に来たの、知ってる?お客さん、ふとん頭からかぶって、寝てたじゃないか。」
私は、ありがたい事だと思った。大げさな言いかたをすれば、これは人間の生き抜く努力に対しての、純粋な声援である。なんの報酬も考えていない。私は、娘さんを、美しいと思った。
十月末になると、山の紅葉も黒ずんで、きたなくなり、とたんに一夜あらしがあって、みるみる山は、まっ黒い冬木立ちに化してしまった。遊覧の客も、いまはほとんど、数えるほどしかない。茶店もさびれて、ときたま、おかみさんが、六つになる男の子を連れて、峠のふもとの船津、吉田に買物をしに出かけて行って、あとには娘さんひとり、遊覧の客もなし、一日じゅう、私と娘さんと、ふたりきり、峠の上で、ひっそり暮らすことがある。私が二階で退屈して、外をぶらぶら歩きまわり、茶店の背戸で、おせんたくしている娘さんのそばへ近寄り、
「退屈だね。」
と大声で言って、ふと笑いかけたら、娘さんはうつむき、私はその顔をのぞいてみて、はっと思った。泣きべそかいているのだ。あきらかに恐怖の情である。そうか、とにがにがしく私は、くるりと回れ右して、落ち葉しきつめた細い山路を、まったくいやな気持ちで、どんどん荒く歩きまわった。

それからは、気をつけた。娘さんひとりきりのときには、なるべく二階の室[へや]から出ないようにつとめた。茶店にお客でも来たときには、私がその娘さんを守る意味もあり、のしのし二階から降りていって、茶店の一隅に腰をおろしゆっくりお茶を飲むのである。いつか花嫁姿のお客が、紋付きを着たじいさんふたりに付き添われて、自動車に乗ってやって来て、この峠の茶屋でひと休みしたことがある。そのときも、娘さんひとりしか茶店にいなかった。私は、やはり、二階から降りていって、すみの椅子に腰をおろし、煙草をふかした。花嫁は裾模様の長い着物を着て、金襴[きんらん]の帯を背負い、角隠しつけて、堂々正式の礼装であった。全く異様のお客様だったので、娘さんもどうあしらいしていいのかわからず、花嫁さんと、二人の老人にお茶をついでやっただけで、私の背後にひっそり隠れるように立ったまま、だまって花嫁のさまを見ていた。一生にいちどの晴れの日に、-峠の向こう側から、反対側の船津が、吉田のまちへ嫁入りするのであろうが、その途中、この峠の頂上で一休みして、富士をながめるということは、はたで見ていても、くすぐったいほど、ロマンチックで、そのうちに花嫁は、そっと茶店から出て、茶店の前の崖のふちに立ち、ゆっくりと富士をながめた。足をX形に組んで立っていて、大胆なポオズであった。余裕のあるひとだな、となおも花嫁を、富士の花嫁を、私は観賞していたのであるが、まもなく花嫁は、富士に向かって、大きなあくびをした。
「あら!」
と背後で、小さな叫びをあげた。娘さんも、す早くそのあくびを見つけたらしいのである。やがて花嫁の一行は、待たせておいた自動車に乗り、峠を降りていったが、あとで花嫁さんは、さんざんだった。
「慣れていやがる。あいつは、きっと二度目、いや、三度目くらいだよ。おむこさんが、峠の下で待っているだろうに、自動車から降りて、富士をながめるなんて、はじめてのお嫁さんだったら、そんな太いこと、できるわけがない。」
「あくびしたのよ。」娘さんも、力こめて賛意を表した。「あんな大きな口あけてあくびして、ずうずうしいのね。お客さん、あんなお嫁さんもらっちゃ、いけない。」
私は年がいもなく、顔を赤くした。私の結婚の話も、だんだん好転していって、ある先輩に、すべてお世話になってしまった。結婚式め、ほんの身内の二、三のひとにだけ立ち会ってもらって、まずしくとも厳粛に、その先輩の宅で、していただけるようになって、私は人の情けに、少年のごとく感奮していた。

十一月にはいると、もはや御坂の寒気、堪えがたくなった。茶店では、ストオブを備えた。
「お客さん、二階はお寒いでしょう。お仕事のときは、ストオブのそばでなさったら。」と、おかみさんは言うのであるが、私は、人の見ているまえでは、仕事がてきないたちなので、それは断わった。おかみさんは心配して、峠のふもとの吉田へ行き、炬燵をひとつ買って来た。私は二階の部屋でそれにもぐって、この茶店の人たちの親切には、しんからお礼を言いたく思って、けれども、もはやその全容の三分の二ほど、雪をかぶった富士の姿をながめ、また近くの山々の、蕭条[しようじよう]たる冬木立ちに接しては、これ以上、この峠で、皮膚を刺す寒気に辛抱していることも無意味に思われ、山を下ることを決意した。山を下る、その前日、私は、どてらを二枚かさねて着て、茶店の椅子に腰かけて、熱い番茶をすすっていたら、冬の外套着た、タイピストでもあろうか、若い知的の娘さんがふたり、トンネルのほうから、何かきゃっきゃ笑いながら歩いてきて、ふと眼前にまっ白い富士を見つけ、打たれたように立ち止まり、それから、ひそひそ相談の様子で、そのうちのひとり、眼鏡かけた、色の白い子が、にこにこ笑いながら、私のほうへやって来た。
「相すみません。シャッタア切ってくださいな。」
私は、へどももどした。私は機械のことには、あまり明るくないのだし、写真の趣味は皆無であり、しかも、どてらを二枚もかさねて着ていて、茶店の人たちさえ、山賊みたいだ、といって笑っているような、そんなむさくるしい姿でもあり、たぶんは東京の、そんなはなやなか娘さんから、はいからな用事を頼まれて、内心ひどく狼狽したのである。けれども、また思い直し、こんな姿はしていても、やはり、見る人が見れば、どこかしら、きゃしゃな俤[おもかげ]もあり、写真のシャッタアくらいは器用に手さばきできるほどの男に見えるのかもしれない、などと少し浮き浮きした気持ちも手伝い、私は平静を装い、娘さんのさし出すカメラを受け取り、何げなさそうな口調で、シャッタアの切りかたをちょっとたずねてみてから、わななきわななき、レンズをのぞいた。まんなかに大きい富士、その下に小さい、罌粟[けし]の花ふたつ。ふたりそろいの赤い外套を着ているのである。ふたりは、ひしと抱き合うように寄り添い、屹[きつ]とまじめな顔になった。私は機械、おかしくてならない。カメラを持つ手がふるえて、どうにもならぬ。笑いをこらえて、レンズをのぞけば、罌粟の花、いよいよ澄まして、固くなっている。どうにもねらいがつけなくく、私は、ふたらの姿をレンズから追放して、ただ富士山だけを、レンズいっぱいにキャッチして、富士山、さようなら、お世話になりました。パチリ。
「はい、うつりました。」
「ありがとう。」
ふたり声をそろえてお礼を言う。うちに帰って現像してみた時には驚くだろう。富士山だけが大きく写っていて、ふたりの姿はどこにも見えない。
そのあくる日に、山をおりた。まず、甲府の安宿に一泊して、そのあくる朝、安宿の廊下のきたない欄干によりかかり、富士を見ると、甲府の富士は、山々のうしろから、三分の一ほど顔を出している。酸漿[ほおずき]に似ていた。

(完)